落ちるのは穴か沼か

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* 「俺、唐揚げ好きなんだよね。タルタルとかあったら最高」 何故に今メモれる環境に無いのだろうか。 発せられた言葉を余す事なく、書き出したいと言うのに。 ボイスレコーダーでも持つべきかと変態じみた事まで考えてしまうが、仕方が無い。 取り合えず脳内にある推し専用の引き出しに記録しておくしかないようだ。勿論入れれば入れるだけ他の記憶が飛ぶのだが、そんな事知った事では無い。 「そうなんですかー」 なんて、言いつつもその顔は真顔の帆高はメニューを眺める律が瞬きもせずに見詰める。 有難う、神様。 バイト上がりのご褒美がこれですか。 と、言うかバイト上がりだと言うのに損なわれない美貌が素晴らしいですね。 真剣にそう思っているのだから質が悪いと言うか、この場に(さとり)でもいれば恐怖で慄くかもしれない案件だ。 しかし、それも仕方が無い事。 適当に入った居酒屋では、客と言えば酔いに羽目を外しに外したサラリーマンから、背後に何かを背負い、落ちるところまで落ちたような訳アリ顔の男、ぎゃははははっと甲高い声で笑っていると思ったらおいおいと咽び泣く女性、そんなある意味個性の強さを見せつける人間たちの肥溜めとなっているようなこの場所で、この目の前の男だけが異質。 お世辞にも洒落ているとは言えない店内と言うのに、テーブルに律が座った瞬間からそこだけフレンチ・リビエラだ。 「……御馳走様です」 「は?何も食ってねーじゃん」 胸がいっぱいになってしまった感情がそのままに、思わず声に出してしまったらしい。 はっと背筋を伸ばし、『何でもないです…』と頬を赤く染めながらメニューに顔を埋める帆高を薄っすらと笑う律を居酒屋のバイト従業員も凝視する。 「お前は何食うの?」 「あ、俺は、えーっと…やっぱねぎまと、手羽先もいいですね、あとあさりの酒蒸しとか、」 「いいよ。一気に頼もう。飲み物は?」 「あー…ウーロン茶でいいっすね」 ぱたんとメニューを綴じるが、ほくほくとした帆高を見る律の眼が一瞬丸くなった。 「あ、そうか…お前未成年か」 「まぁ…つい何か月前までは高校生やってたんで」 「そうだったな」 ふふっと笑うその姿も拝む程に美しいと思ってしまうが、その反面分かってしまった事ひとつ。 (って事は、やっぱ俺に対する興味って殆どゼロだよなぁ…) 別に自分の全てを知っておいて欲しい! と、言う訳では無い。むしろ全て知られてしまったら通報されかねない。 けれど、少しくらいは興味を持っていただきたいと思うのは自分のエゴなのだろうか。 推しと推される側。多少の認知を望む事は贅沢なのかもしれないと思いつつも、少しだけ肩が下がってしまう。 (まぁ…でも、いいか) 律の事を知るだけでも楽しいのだ。 身内に居る推し活の見本の彼女は相手の事を知るだけであの歓喜具合なのだから。 取り合えず唐揚げが好きな情報はゲットできた。今日の収穫としては満足いくものだろう。 「俺、ビールいい?」 「勿論っ」 取り合えず生派である事も重要な情報だ。 先に届いたのは律の好物だと言う唐揚げ。 どんっと大皿で置かれた揚げたてのそれからは芳ばしい香りと油の撥ねる音が聞こえる。 「うわ…うまそ」 「だろ、結構旨いんだよ、ここ。下に敷かれてるざく切り野菜も旨くてさ」 律により取り皿に乗せられた唐揚げが神々しく見える。 出来る事ならジップロックで持ち帰りたいところだが流石にそれは抑えた方がいいだろう。色んな方面に迷惑が掛かる上に生きる上での大事なものを一瞬にして無くしてしまいそうだ。 「い、いただきますっ」 そんなある種極めた事を考えながらも、帆高は平常心を全面に貼り付け、まずはタルタルソースを付けずにそれを口内へと放った。 「あ、」 ーーー本当に美味い。 噛んだ瞬間から、じわっと溢れ出る肉汁と程よい塩味が舌に伝わり、次第に旨味へと変わっていく。 「おいしい?」 ふわりと頬を高揚させた帆高を見て、目を細める律も早速と箸を自分の取り皿へと。 「うまいっす、これ俺かなり好きですっ」 「だろ?」 タルタルソースを付ければ、濃厚なマヨネーズの酸味がくどいかと思われたが、意外な程にさっぱりと食べれるのも良い。 (意外とこの店穴場かもー…) 次に運ばれてきたつくねも然り。 ぎゅうっと密度の濃いつくねとそれに絡まった醤油ベースのたれがこれまた合う。 律と一緒と言う事を差し引いてもかなりの当たりだ。好印象しかない。 もっもっと頬を膨らませ、どんどんと料理を平らげるのは腹が減っているのもあるが、矢張り一番はこの味だ。 しょぼい店だとか思って申し訳ないとすら思える。 しかもよくよく考えてみれば律の行きつけ、お気に入りの店なのだろう。 メモる案件が増えた。 小鼻を膨らませ、上がりっぱなしの口角はそのままにアルコールを飲み進めていく律を見て思う。 (早く二十歳になって、俺も一緒に飲んだりできるもんかね) その頃にはもっと律の事も知れているといいな、と一人ほくそ笑む帆高は今はまだウーロン茶で流し込むしかないようだ。 「帆高、今日はうちに泊まる?」 本当に流し込んでおいてよかった。 人間ポンプにならなくて良かった。
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