落ちるのは穴か沼か

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会計も済ませ、唐突にそう言われた然程大きくも無い帆高の眼がぐりっと見開かれる。 「え、え、ええ?あ、えぇ?」 言われた意味が分からない。 何と言った? あまりに衝撃的、いつか恋人に言われてみたいトップ5に入っているであろう台詞をさらりと言われた気がする。 幻聴?と疑いたくなるような、それ。 「だから、俺ん家ここから近いんだよね。明日どうせ集合先は一緒なんだし、泊まってく?」 ヤバい、戻ってきそうだ。 まさにキャッチアンドリリース、人間ポンプの名を欲しいままにしてしまう。 人間脳内がバグるとそのまま身体に直結されるようだ。 戸惑いが物理的にそのまま胃からせり上がってくるのを感じ、咄嗟に口元を覆う帆高の心臓はこれまで以上に速い。 (いや、流石に…泊まるってのは…駄目だろ…) そこまでプライベートをぎゅと濃縮したような空間に足を踏み入れ、しかも宿泊までさせて貰えるなんて。 それなりに立場は弁えているつもりだ。推しとして律に憧れてはいるものの、一線は引いていないといけない。 帆高の母曰く、 『ちょっとぉー!ツアー先のホテルとか特定して侵入とかしてる子がいるんですって!こういう子が居ると民度が下がるっつーのよっ、うちらも迷惑だけど彼が一番可哀想だわ、迷惑行為過ぎるわよっ!!!!』 そう行き過ぎた行為は迷惑に繋がる。 実のところ、割と変態の域まで達していると自覚をしている帆高。認めたくなかっただけで、本当の所は自身でも相当気持ち悪いだろなぁ、とは思っていたのだが、お泊りなんてしまった暁にはボロが出てしまうかもしれない。 恋愛感情では無いとは言え、まだ出会って間もない、しかも同じ野郎から推されているなんて律に知られたらどんな顔されるか恐怖しかない。 そう、表立ってどうこうとはしたくない、悟られたくは無いのだ。 となれば、ここはお断り一択のみ。 「あの…、」 肩を縄張りとする気まぐれに憑りついた霊ですら滑り落ちそうなくらいに肩を落とし、苦悩から生まれた眉間の皺を深いモノにした帆高は溜め息と共にゆっくりと口を開いた。 * (――――まぁ、さっきまでは、そう思ってたよな) 推しの家に泊まるなんて…!! 「そこ、適当に座っといて」 「は、いっ」 数十分前の自分とはすぐにさようならをさせて頂いた。 今此処に居るのは、律の家にホイホイとやって来たニュー帆高である。 何故にこうなったか、なんて、それは野暮と言うもの。 お断りしようとしていたのだ。 着替えなんて無いし、と、ありきたりな理由を盾に、折角のお誘いなのに申し訳ないと心からの謝罪を含めて。 だが、 『着替えなら新しい下着もあるし、服だって貸すけど』 そうさらりと答えた律に一瞬身体も硬直させた。 『来ねーの?』 伝家の宝刀、首こてんまでも炸裂。 ―――――い、 『行きます…』 そりゃ、仕方が無いだろう、とソファに座りながら己の不甲斐なさを振り返るもあれをお断り出来る人間が居るならば是非ともお会いしたものだ。 (しかし…) ぐるりと見渡す室内は想像以上に広いマンションの一室。 一人暮らしだとは聞いていたが、それにしては贅沢な広さに加え、家具等もそれなりにこだわっているのか、全てが白とグレーで揃えられている。 今座っているリビングのソファも座り心地も良ければ、ベルベットのような触り心地。 ーーーーここが律の家。 よし、余す事無く記録して帰ろう。 と、思っているかどうかは定かでは無いが、瞬きもせずにぐるりぐるりとセンサーで読み取るが如く、眼を這わす。 「コーヒーでいい?」 「え、あ、すみません、」 明らかに不審者としての動きを自然に熟知している帆高だが、キッチンから戻って来た律から差し出されたカップを受け取ると、頭を下げた。 ふぅっと息を吐き、カップから香る豆の匂いに少しずつ思考がクリアになって行く。 今更取り戻した落ち着きにほろりと出てきたのは疑問。 (いや、うん…) 確かに律から誘われたのは喜ばしい事。 だが、よくよく考えてみれば、まだ出会って数ヶ月、もっと言えば連絡先を交換して一か月程しか経っていないような男を、何故自宅に呼んでくれたのだろうか。 (うん、普通ー…そう、だよな) しかも若干とは言え、人間不信気味。 バイト先が一緒なだけ、多少話せるようになっただけの帆高をなんて、まだ信頼なんて無いに等しいのでは? 「あのさ」 そんな帆高の思考を遮るように、テーブル越しのソファに座る律が脚を組み替える。 あんなに長くてよく絡まないな、なんて的外れな事を思った瞬間だ。 「お前もしかしてだけど、俺のこと好き?」 「ーーーーへ、」 間の抜けた声が室内に響く。 それは紛れもない自身のものだが、まるで違う人間が発した声のように、帆高の耳に届く。 (は?何て?) 泊まりに来いと言われた時、これ以上の衝撃的な事はもうこの先無いだろうと思っていたが、それを軽く上回る今の律の発言は、一度はしてみたいされてみたい万札の束からビンタを食らったような勢いだ。 もしかして冗談でも言われているのかとも思うも、目の前の律の視線はしっかりと帆高の元に。 ただ、どこか気怠げに見えるのはアルコールの所為なのか、それとも違う意味合いが含まれているのか。
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