落ちるのは穴か沼か

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それにしても、だ。 この場合なんて答えるのが正解なのか。 (教えて有責者) 混乱が混乱を呼び、新たな混乱を引き出し、叩き売る程に出て来た戸惑いは一周回って冷静にさせてくれる。 正直に、 『好きとかじゃなく推しですっ!!!』 と力説するべきか、 『誤解ですっ、違うんですっ、決してやましい気持ちはございませんっ』 と、ジャパニーズの名にふさわしいお手本の様な土下座を見せつけるべきか。 「……何で、そう思ったんでしょうか…?」 本来ならば先に否定から入るべきなのだろうが、そう逆に問うてしまった帆高をしばし見詰めた律は溜め息混じりにソファに背凭れた。 「別に。なんとなくって言うか、」 「あー…」 矢張りここははっきりと顔がどストライクだと思われると伝えた方がいいのだろう。 いや、顔だけではない。スタイルだって帆高のツボなのだ。玄人の鍼灸師レベル、ついでに言わせて頂ければ律の少し気怠る気な感じも雰囲気に合っていて良いとも思っている。 人間不信なのに面倒見が良かったり、不意に見せる笑顔なんて文字通り心臓鷲掴みからの生絞り状態だ。 けれど、それは決して恋愛感情や恋慕的な物ではない。 帆高は異性愛者。 今迄好きになってきたとはまでは言えないにしろ、気になって来た子は皆女性。 (よし…) 言おう。 きちんと伝えるべきだ。恋愛感情ではないが、綺麗だと思っている事。アイドルを崇拝しているような気持ちしかない、と。 それに、ここで否定しておかなければ、気持ち悪いと思われかねないうえにバイト先でも避けられる恐れは大いにある。 (それは嫌だ…) 推し活云々の前にこのような夢の様な付き合いが無くなってしまうなんて、嫌だと拳を握った帆高は意を決したように顔を上げると真っ直ぐに律へと視線を定めた。 「あ、あの、俺は、」 腹に力を込めて、はっきり、きっぱり、 「まぁ、いいや。じゃ取り合えず俺と付き合う?」 「―――――………は?」 すん、 と、落ちたのは帆高の肩と息だ。 「付き合ってみるって言うのもありだと思うけど。帆高はどう?」 「どう、と…」 申されても。 待って何このスピード展開。 ウサギの名探偵よりも早くないか? 予想外の展開しかない道を振り回されながらバイクに括り付けられ走らされているような感覚に、無意識に目頭を押さえた帆高は静かに息を吐いた。 (いや、まじで、え?え?) 今日だけで一生分の『え?』を使用したような気がする。 次に使う時は課金制になっていたらどうしようなんて思う余裕はある為か、ゆっくりと顔を上げると、相変わらず涼しい顔をしている律に口元を引き攣らせた。 温度差が違い過ぎるとでも言うべきか。 (この人…別に俺が好きで付き合いたいとかじゃない、よな…明らかに…) 謎の倒置法を使いながら、何をどう喋ればいいのかと模索するが、 「帆高?」 呼ばれた名にびくっと肩を揺らす。 此方を見詰める藤色の前髪から覗く眼は透明度の高いガラス玉のよう。 いまいち感情が読み辛いが純粋に綺麗だと思えるそれに、一瞬惚けてしまった帆高にまた声が掛けられた。 「付き合う?帆高」 形の良い唇が自分の名を呼んでいる。 それだけでもまるで奇跡のようだ。 何故頷いてしまったのかと問われれば、その奇跡が一体どんな形態であるかを知りたかったから、と答えるだろう。 * 脱皮をしたトカゲや蛇はこんな気持ちなのだろうか。 ーーーー妙にすっきりとしているのに、まるで自分の身体では無いようにぞわぞわとする。 自然と開いた瞼の先、見知らぬ天井を見上げながら、しばし自分が一体何処にいるのか理解出来なかった帆高だがのそりと起き上がり周りを見遣ると、『あぁ…』っと小さく舌打ちを零した。 ベッド脇で充電させて貰っていたスマホを確認すれば、時刻は八時前。 普段ならばまだまだ惰眠を貪っている時間だが、いつもの環境と違うと言うのを身体が感じていたのか、こんな時だけ敏感に反応してしまったらしい。 シャツの間から手を入れ、ぼりぼりと腹を掻き、ついでに欠伸もひとつ。 まだぼーっとする頭をくるりと回し、寝ていたベッドを見回し、はっと隣に目をやるもそこには誰も居ない。 思わず安堵の息を吐く帆高だが、ガチャっと聞こえた音に残像も残らぬ速さで首を捻った。 「あ、起きたんだ」 寝起きも素晴らしい造形美だ。 スウェット姿でも分かる脚の長さに、長い髪をくるりとひとつに纏め、前髪もピンで留めている。 初めて見る朝一番の律の姿に自然とご来光を拝む姿勢を取りそうになるも、そこはぐっと堪えてみせるのが常識。 ベッドで正座する帆高は何とか取り繕った笑顔を見せ、律へと身体を向けた。 「お、おはよーございます…」 「はよ。寝れた?」 「あ、はい」 それは嘘では無い。 初めて来た他人の家、それも律の家。しかもキングサイズとは言え、律と共にこのベッドで一緒に寝る羽目になったと言うのにすぐに眠ってしまった。 バイトで疲れていた以上に頭を使ったのが原因だろう。キャパオーバーしていた脳は休息を取りたかったのかもしれない。 「あの、俺寝相とか大丈夫でした?」 目下の心配はこれだ。 「あぁ、全然大丈夫」 そう言われて、ほっと猫背になる帆高は目の前に差し出されたのは真新しいタオル。 「使って」 「あり、がとうございます…」 どうやら顔を洗って来いと言う事らしい。至れり尽くせりに恐縮してしまう。
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