落ちるのは穴か沼か

9/10
前へ
/87ページ
次へ
さっと顔を洗い、腰を上げれば鏡に映るのはのぺっとしたいつもの帆高の顔。 別段何か目立ったところもなく、口元の黒子だけがそれとなく主張されているくらいだ。 当たり前だが『カッコいい』だとか、『素敵』だとか、『タイプ』だなんて言われた事も無ければ、伝えられた事だってない。 匂わせすらも。 (―――……こんな、俺が、) 「帆高、顔洗ったらコーヒー淹れるから」 「わー…ありがとうござい、ます、」 あの律の『恋人』になるなんて、一体誰が想像しただろう。 ――ー反語。 背後から声を掛けられ、軽く頭を下げる帆高はもう一度鏡を見遣る。 八の字に垂れ下がった眉が何とも情けない。 キッチンのダイニングテーブルにコーヒーが二つ。 「砂糖は?」 「い、いらないです」 「ミルクも?」 「はい」 「ふーん」 「いただきま、す」 少々ぎこちない態度は許して頂きたい。 何故ならそれなりに緊張している。 ちらりと見遣った先の律は相も変わらずの飄々とした態度に、『恋人』なんて甘い匂いの欠片も見て取れない。 それ故、もしかしたら昨夜の話は冗談だ、と言われるのではと一応の心のウォーミングアップを始める帆高はぐびりぐびりとコーヒーを飲むと言うよりは飲み込んでいく。 沈黙が続く事、数分。 「あのさ、」 「はい」 (おっ…!) 酔っ払っていた上での冗談だったんだけど、 ――――なんて、言われたら笑顔で、 「やっぱさ、取り合えずおはようのキスでもしとく?」 「ぐっ…!!!!!!!!」 両手で口と鼻を押え、コーヒーが出るのを押さえる休日の朝。きっとこんな一日の始まりを迎えているのは帆高くらいのものだろう。 「何してんの?」 そりゃそう思われても仕方ない光景なのだろうが、それに対して今素直に答えられはしない帆高は口内にあるコーヒーを何とか飲み干すと、げほっと咽た咳を吐き出し、恨みがましい目を律へと向けた。 「そ、そっちこそ、何を言い出すかと思ったら、」 こんなモデルルームの様な部屋をコーヒーで墨絵の如く汚してしまうところだった。 涙目で唇を尖らせる帆高だが、そんな彼の態度等気にもしていないのか、ふっと唇を持ち上げた律はテーブルに肘をつく。 「付き合うならそう言うもんじゃねーの?」 「……えぇ…」 人と恋人として付き合うとなれば、確かにそう言うモノなのかもしれないが、だからと言って昨日の今日で『さぁ、キスしましょう』と言って出来るようなものなのだろうか。 もっと言ってしまえば正直律の気持ちも理解出来ていないまま、キスなんて簡単に出来るようなモノではないのでは? 一体何を考えて自分と付き合おうなんて思ったのか。 勿論帆高自身も律に対してそんな気持ち等無いに等しいと言うのに流されるのは嫌だとすら思う。 「えー…そう言うのって、その、自然に出来るようになれば、いいと思うので…」 「自然?」 兎に角互いに気持ちが定まっていない侭、キスだなんだとは流石に出来ない。 割り切って出来る人間もいるのだろうが、生憎帆高は前者の人間。 別にファーストキスはロマンティックなムードを盛り上げてからの特別な場所で大好きな人と♡なんてドリームを持っている訳では無いものの、矢張り相手が推しである律だと思えば、禁忌を犯しているような気持ちもあるのかもしれない。 言うなれば踏み絵をさせられているキリシタンのような、そんな感覚に近い。 「あ、そう、あのですね、まだ俺には早いって言うか、」 「へぇ」 分かっていただけたのだろうか。 気のない相槌に肩を竦める帆高はこっそりと溜め息を洩らす。 人間不信気味とは言え、これだけ美形でスタイルもいい男。 きっとそれなりに女性からも男性からも言い寄られて来たであろう事は確定。リズム良く物事も進めて来られたのかもしれないが、帆高とて譲れないものはあるのだ。 行為に及ぶのは、もっとお互いの事を分かってから、もしくは付き合っていく中で少しでも二人の気持ちが交差した時だと思っているのは普通の事なのでは無いのだろうか。 古臭い? お堅い? でも他人の事ならばいざ知らず、己の事となると拘って当然なのでは? 「順を追って進めたいって事?」 「あ、そうですっ、そんな、感じで…」 律から吐き出されたのは溜め息。 もしかして面倒臭いと思われているのかもしれない。 いや、それならばそれで良し。 むしろ、今から別れましょう、この話は無かった事に、と言われてもすぐさま受け入れる事は出来る。 傷は浅い内にと言われるが、今ならばほぼ無傷だ。 残ったコーヒーをごくりとまた飲み込み、両手でにぎにぎとカップを弄りながら、落ち着かない風につま先をぎゅうっと縮める中、 「じゃ、」 「はい」 「ハグぐらいからにしとく?」 「………あー…」 違う。 何となく違う感じがする。 帆高の言わんとする事を律もそれなりに解釈してくれたのだろうが、微妙なズレがある。 だが、瞬間帆高の脳裏に過ぎったもの。 それは、 (律さん、の…ハグかぁ…) 気になる。 大いに気になる。 無意識に鼻息が荒くなる程に気になってしまうは推す側としての性なのか。 あの長い腕や意外と広い肩幅、人間味の薄い造り物のようなスタイルに包まれるとは一体どう言う感覚になるのか。 (キ、キニナル…) そう考えてしまえば、泳ぐ眼と上擦る声。 「そ、そーですねー…ハグ、くらい、から、」 やばい、口角も上がりそうだ。
/87ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2568人が本棚に入れています
本棚に追加