落ちるのは穴か沼か

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「じゃ、はい」 帆高の答えを聞き、徐に立ち上がった律が両手を広げる。 (…飛び込めと…?) 恋愛初心者に何をさせようとしてんだ。 強張る頬を誤魔化そうともせず、あからさまな戸惑いを浮かべたまま、そろりと帆高も立ち上がるも、距離の詰め具合が何とも微妙なもの。 側から間合いをじりじりと見計らう柔道部員だが、本人からすればこの状況を笑う余裕もない。 「む、胸をおかりしますっ、」 「…おー」 ーーー柔道部員だ。 ふんっと大きく鼻で息を吐き、広げられた胸に自分の胸を合わせるように入り込む。 腕は一体何処に置けばいいのだろうかと一瞬迷うも矢張りここは背中に回すのだろうと、ぎこちない動きながらも律の背中に手を置くと帆高の背中と腰にも重みが加わった。 律の手がそこにあるのだ。 どきどきと恥ずかしいくらい心臓が煩い。 いや、どきどきなんて可愛らしい物ではない。 どっくんどっくんと脈打つ生々しい鼓動だ。 油断すれば、ふっふっと浅い息を小刻みに刻みそうになるも、それも何とか我慢。けれども律にそれが伝わってしまうかもしれないと思うと羞恥と不安が混じり合うもどうしていいのやら。 (あ、れ、) それに、 (意外と、あったかい、と言う、か…) 自慢ではないがこの年になるまで人肌を感じるなんて母親かフォークダンスを組んだ女子、中学三年生の頃の頼んでもいないのに運動会終了後に抱きしめてきた熱血の担任教師くらいだ。 そしてもうひとつ。 (…いい匂いするな) 香水や柔軟剤の匂いとは違うそれ。 美人だと体臭まで良いのだろうか。それとも律だけが特別なのか。 すんっと律の肩口に鼻を近付け、少しだけ体重を乗せると、背中に回っている律の腕の力が少し強くなった感覚だが、都合の良い気の所為かもしれない。 「どう?」 「え、あ、あぁー…そ、そうです、ね」 頭上から問われる声にさて、一体どう答えようかと思うのと同時に、 「あ、あったかい、ですね、あといい匂いがします」 「……は?」 ーーーー何を馬鹿正直に応えているんだ、俺は。 聞きようによっては、 『肌のぬくもりにハァハァするうえに、くんかくんかと匂いまで堪能しております』 そう、実は変態ですと自己紹介しているようなものではないか。 額に浮かぶ脂汗。 きっと顔色もすこぶる悪いモノになっているだろう。 (やべ、身体を離した方がいいんだろうけど、) 律のリアクションを見るのが怖い。 引いていたらどうしよう。引いてた上に申し訳なさげな顔をされていたら立ち直れない。 律の背中に置いてある手をそろりと外そうとするも、 「そう」 ーーーーーん? 思いの外柔らかい声に帆高の眼がくるりと動き、思わず顔を上げた。 「じゃ、ハグは大丈夫みたいだな」 「そー…っすね」 互いに顔を見合わせ、律の表情が強張っている訳でも無く、戸惑っている訳でも無いのを見遣り、ほっと息を吐いた帆高は口元を撫でる。 どうやら『恋人』としてのハグは終わったようだ。 「着替え貸すから」 「ど、どーも」 すっと体温が離れ、ダイニングから出ていく律の後ろ姿を見送り、椅子に座り込む帆高の身体から力が抜けて行く。 気になったハグを体験した、今。 (えー…悪く、ない) 感想と言えばこれだ。 悪くないどころか、心地良かった気さえもする。 同じ野郎同士。 恋愛感情皆無、その中で矢張り律と言う推しの人間とのハグは価値観さえも変えてしまうのかと思う程。 (美人って…やっぱ得なんだろうな) 男であっても女であっても。 まず第一印象で嫌悪も持たれる事なんて無いのは当たり前で良い匂いまでするのだから。 どう言う匂いだと聞かれたら説明は出来ないものの、好きな匂いだと言う事はわかった。 推しの事が、少し、分かった。 (でっかい収穫だわ…) にやついてしまう頬を指で摩りつつ、帆高は肩を竦めた。 * (ーーーーまぁ、分かってたけどさ) 『これ着れる?』 律に出された服の全てと言うか、パンツは全て彼の足の長さを立証してくれるものばかりだ。 パジャマとして借りたスウェットは足首がしぼってあるタイプだったのもあり、そこまで気にはならなかったものの、ズボンは誤魔化しようがない。 10センチ近くは余るズボンの裾。 一体何を食ったら足がこれだけ伸びるのか。 ロールアップしようかとも思ったが、曲げればその厚みに足首付近に錘をつけているように見えてしまう。 簡易的なピッ○ロさんが出来上がってしまうのは嫌だ。 仕方がないと出された打開案は八分丈パンツ。 (ピッタリじゃねーかよ…) 主に足の長さが。 うずうずと男としてのコンプレックスが抉られるも、この擽ったい感覚は何かと考えてみれば、 (お、俺の推しも…脚が5メートルある…) 優越感でしかない。 いつぞや母親が言っていた言葉だが、申し訳ないがあのアイドルよりも律の方が5メートルだと力強く断言できる。 そしてその推しの服を着せてもらえるとか成功している、成功した人間と言えるかもしれない。 「どう、服は合った?」 「あ、大丈夫です、ありがとうございます」 ちなみに匂いも確認済みなのは当たり前だが言わない。 (服にも律さんの匂い染み付いてるわー…) 変態さに磨きが掛かっている。 踏まれたアクセルの行く先が沼なのか穴なのか。 どちらにしても底はまだ見えないようだーーー。
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