それはそれ、これはこれ

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「……大丈夫?」 「大丈夫、です、」 息継ぎも上手くできやしない初心者相手に何してくれてんだと一言物申したい帆高だが、みっともない姿はこれ以上晒したくはない。 力の入らない膝を叱咤し、律の胸元から身体を離すもふふっと聞こえた笑う声にちらりと視線を上げた。 「何っすか…」 ゆらゆらと揺れる律の眼に自分が映っているのに感じるのは照れ臭さ。 「何か、可愛いと思って、」 「―――そう、ですか、」 余計に気恥ずかしい。 可愛いなんて単語、縁遠く、今までも言われた事も無い。もしかしてこの男、顔とスタイルの良さと引き換えに視力がとんでも無く悪い、または美的感覚は著しく低い設定とされているのでは、と懸念してしまう。 「で、どう?」 「―――えーっと…」 どう? 一つ一つ経験する度に聞かれるこの質問も一体何なのだろうか。 呪いでも掛けられてる? けれど、問われているのならば答えてあげたいのは推す側としての使命なのかもしれない。 「――――…比べる相手も、居ないんで、どうのこうのとは説明し辛いんですけど、」 「嫌だった?」 「いやー…嫌、じゃ、無い、っす…」 むしろ、気持ち良かったです。 ―――――言える筈も無いのだが。 「もう一回しとく?」 「…………あの、それより、」 場所を移動したいんですけど。 未だ玄関を入ったばかりのそこ。 互いに我慢が出来なくてがっついてました、なんてラブラブカップルでも無いと言う事実に、途端に切なさを感じてしまう帆高はこっそりと溜め息を吐いた。 予想通りと言うべきか、次の日の朝。 予想以上に早く起きてしまった帆高は、腰に回された腕をそろりそろりと剥がす。 誰の腕だとか、調べなくても分かる、この部屋の住人だ。 一応気を遣いつつ、腕を引き剥がしていたつもりだが、小さく唸り声がしたかと思えば、ゆったりと開く瞼。 そして寝ぼけ眼が帆高を見るなり、くりっと見開かれ、あぁ…っと小さく呟くと、ほんの少しだが眉間に皺を寄せた。 「…おはようございます」 「…あー…、おはよ、…えー…っと、おはよう…」 数秒の間で二回もおはようと挨拶をする律の様子に、帆高の中で確信した事と言えば、 (やっぱ酔っ払ってたって事だよな…) はは…っと乾いた笑いしか出てこない。 今帆高が着ている部屋着だって、『買っといた』と持ってきてくれたと言うのに。 もしかしてこの家に誘ってくれた事も忘れているとか無いだろうか。 そうだとしたら此方の方が気まずいと肩を竦めるも、と言う事は、だ。 (キス…した事も忘れてるって事、かも、) ちなみにあのキスの後、リビングに入るなり、シャワーだ、着替えだと準備してくれた律は帆高の後にシャワーを浴びると、疲れていたのか、それとも酔いがピークを迎えたのか、すぐにベッドへと飛び込んだ。 帆高を抱えて―――。 すやすやと寝息を立てる律の穏やかな顔を特等席で眺めながら、呼吸が荒くなってしまったのは墓場まで持って行きたい逸話だったりする。 そうして、今に至るのだが、どう説明したらいいものか。 額に手を当て、考え込む様子の律に小さく息を吐き、『あの、』と声を掛ける。 『昨日はお言葉に甘えて泊まらせて貰いました。酔っ払ってたし、大丈夫ですか?』 昨日のキスの事には触れず、さりげなく二日酔いの心配でもしてみよう。 引き攣りそうな頬を誤魔化しつつ、ベッドを降りながら口を開こうとした帆高だが、 「―――…怒ってる?」 「へ?」 青白い顔を手で覆い、指の隙間から此方を覗き見える律にその動きは止まった。 (怒っている、とは?) ばちばちっと瞬きを繰り返し、黙り込む帆高をどう思ったのか、はぁっと大きく息を吐く律がベッドから降りる。 「コーヒー淹れる…」 「あ、あの、律さん、」 「…何?」 「怒って、無いですよ、俺」 呼び止めたものの一体どうすればと思い、出た言葉は結局これだ。 むしろ自分の何を思って怒っていると思っているのか、それも分からない今、取り合えず律に伝えたい気持ちをそのままに。 「…つか、部屋着ありがとうございます。めちゃサイズも合ってて、」 Tシャツに通気性の良いスウェットパンツは帆高本人も驚く程のピッタリサイズ。 これを律が用意してくれていると思うと感謝と興奮しかない。 「ちゃんと洗濯して、大事にしますっ」 そう、自分の為に用意してくれたもの。 例え昨日本当は自分を泊まらせる予定では無かったのかもしれないが、それでも肩を竦めて、へらりと笑う帆高から放たれる嬉しさは隠しきれない。 「…帆高さ、」 「は、はいっ」 「キス、嫌じゃなかった?」 ――――――覚えてんのかーい。 即座に出て来たツッコミが残像も見えないスピードで脳裏を過って行く。ついでに大海の十八番の高速で通り過ぎるF1マシンのモノマネ、と言うどうでもいい記憶も一緒に――――。 見事に固まる帆高を他所に、律はしっかりと眉間に皺を寄せる。 もしかしてだが、 (この人…俺が昨日のキスで、怒ってると思ってんの?) それで不安に思っている、と言うのがこの態度なのだろうか。 色々と分かり辛い上に、この美形な顔立ちで何を不安に思う事があるのかと思うものの、立場が違えば悩みも違うと中学時代の担任も言っていた。 (よく分からんけど…) この人はこの人なりに思う事があるんだろう。 口元の黒子を撫でていた帆高は、律の隣へと身体を並べた。
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