それはそれ、これはこれ

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「律さん、」 「何?」 「あんま、気を遣わなくていいっすよ、俺に対して」 「は…?」 もういっそ、堂々とすべきかもしれない。 律の中ではきちんと順序を踏んでお付き合いをしている、帆高は恋人として扱ってくれている。 あまりに意味の分からないまま、律の気持ちもさっぱりにもかかわらず、流れでお付き合いを受けてしまったと言う罪悪感はあるものの、推しであると言う事実と推しは笑顔で居て欲しいと言う願いは変わらない。 「その、もっと自然で大丈夫って言うか、俺男だし、豆腐よりコンニャク目指してるって言うか、」 「………」 自分でも何を言っているんだか。 つまりはそんなに脆くない、崩れやすくは無いと言いたいのだが、こんなくだらない事に説明するのも羞恥の極み。 けれどその捨て身にも近い羞恥心を耐えた甲斐があったのか、二人の間に流れていた緊張感が緩和したような気がする。 ふわり、と、少しだけ困った風に眉を寄せた律がゆったりと口角を持ち上げ、帆高へと向けたのは苦笑い。 「俺、カッコわる」 「いや、十分カッコいいっすよ」 そのツラで何をおっしゃる。 推す側としての立ち位置でなく、若干ハードボイルドな帆高であったらその綺麗な眉間に指でも突き入れている所だ。 「ガっついてゴメン」 「へ?」 けれど、行き成りの謝罪にそんな衝動も綺麗に消え去る。 「何か、酔いも手伝って、がっつりキスして」 「―――――あー…」 なるほど。 罪悪感が消えないと言う所なのだろう。 律が何をどう考えているのかは未だ理解出来ないが、半ば無理矢理キスをしてしまったと言う性急な行動は彼にとっては予想外、もっとスマートに事を運ぶ予定だったのかもしれない。 (―――うーん…) だとしたら、もう一度捨て身の作戦が必要だ、と思ったかどうかは分からないが、参考にすべきはハムラビ法典。 やり方は簡単。 俯いた律の頬をがっと両手で掴み、ぎょっとした顔を見せるその美人に自分の唇を押し当てる。 流石に素人、舌をどうこうなんて事は出来ない為、押し当てるだけのそれだがたっぷり数十秒。 ようやく唇を離し、眼を見開いたままだったのだろう律に帆高はふんっと荒い鼻息を披露すると、少しだけ唇を尖らせた。 「……おあいこって事でいいですかね」 「―――お、あいこ、」 「無理矢理キスしました…すみません」 謝罪を口にすれば、帆高の手に自分の手を重ねた律がふふふっと眼を細める。 「結構、アグレッシブな事するよな、帆高って」 どうやら何らかのツボを指圧してしまったらしく、ぷっと噴き出すと肩を震わせる美人を前に何とも言い難い渋い表情を見せる帆高の唇は益々尖るばかり。 だが、こんなに笑う彼を見るのは初体験、と言うオタクの心理が突き動かされるには十分で結局その姿を見落とすまいとガン見してしまう帆高の眼は瞬きひとつしない。 そして、おもむろに顔を上げた美人の表情は泣き出してしまうのではと思うくらいに儚く、チョロい帆高の視線を掻っ攫うには十分なもので、口を開けっ放しに見惚れた瞬間、 ――――ちゅ、 当てられた唇はしっかりと。 「……………ええ、え?」 何故にこのタイミングでキスなのか。 驚愕で固まる帆高の指に自分の手を絡めた律の微笑みは美しい。 「自然で行くわ」 握られていた帆高の手に律の指が絡む。 「気を遣うのも辞める」 「は、はい」 「だから、キスとかもしたい時にするし、帆高もそれでいい?」 「えっ…!!!?」 それでいい?と聞かれて、嫌ですと答えられる訳も無い。 しかも、先程よりも晴れ晴れとした表情に見える律がいつもよりも綺麗に映り、かぁっと頬を赤くなるのを自覚した帆高はドキドキと和太鼓並みに胸を打ち始めた心臓を押さえたいが両手はいつの間にかしっかりと力強く握られている為に動きもままならない。 「駄目?でも帆高が言ったんだろ、自然体でいいって」 それはそうだが、何となく違うのだ。 何となく嚙み合わせが悪いと言うか、授業で使う色紙(いろがみ)を持ってこいと言われたら色紙(しきし)を持って来たくらい違う気がするのだが、 「ありがとう、帆高」 ふわりと笑う姿と握りしめられた手に喉を上下してしまう。 ごくりと飲み込んだ生唾だが、もう既に口内に溜まるそれ。 浅ましさを自覚しつつも、ぎくしゃくとしたぎこちない動きのまま帆高はこくりと頷いてしまった。 「っでも、昨日もお伝えした通り、初心者なんで、」 「もう三回もすりゃ初心者じゃねーじゃん」 「えー…え、えぇー…」 戸惑う帆高を見て一体どう思っているのやら。 「そう、そうですかね、俺らペース早くないっすか、大丈夫ですか?」 「誰と比べて言ってんの?他所は他所、うちはうちだろ?」 「あー…た、確かに、」 何かと比べるような事でもないのは確か。 今迄と違う、どことなく吹っ切れたようにも感じる律を前に見惚れてしまう帆高の顔は熱い。 コーヒーを飲もうと自分の手を引く律に嫌悪感なんて無い。むしろ、有難う御座いますの意しかない。 細長く爪までもが美しい指に触れられるとか。 いいなぁ、こんな人に、 ーーあ? 今、 自分は何を思った? 顔や胸、手の熱さとは反対に、ゾクリと感じたのは悪寒。 駄目だ、それは駄目だろ。 一瞬でも過ぎった、それは見ない、感じない、悟ってはならない。 『それはそれ、これはこれだろ?』 呟いたのは、誰に、何に対してだかーー。
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