白いテープの行方

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白いテープの行方

自然体と言うのが一体どういう雰囲気なのか、意識した事もなければ敢えて感じた事も無いが、 【何時に終わる?】 バイト中に入って来たメッセージに帆高の頬が薄っすらと染まる。 一か月限定であった律との研修も含めたコンビ関係も解消。 早速一人で依頼先へと向かうようになり、終了時間も互いにまちまちになってしまった事も関係するのか、最近こう言ったメールが度々届くようになっていた。 本日の出向先での依頼は一人暮らしの男性の家の掃除と言うもの。 近々母親が上京し、部屋に泊まらせろと言うのに仕事が忙しく部屋の掃除まで手が回らないと言う理由の為だ。 所謂汚部屋と言うものだが、依頼内容は珍しくもない。すっかり慣れてしまった事実が切なさを感じてしまうも、仕事は仕事。重んじるべきは需要と供給が成り立つ事なのだろう。 手始めにリビングに散らかったワイシャツをクリーニング行きの袋に入れ、床に落ちているゴミを仕分け、テーブルの上に散乱していた缶ビールも袋へと。 キッチンも汚れたままに置かれた皿からコップ、コンロとフィルターに至っては油汚れで変色していたくらいだ。 何処から購入したのか、会社持参の怪しい色した液体スプレーで撃退しつつ、ようやっと終了した頃にはすっかり日も暮れ、20時になろうと言う時間。依頼者も仕事から戻り、綺麗になった部屋に歓喜するとテンションも上がり上機嫌になったのだろう、一緒に夕食をとお誘いを受けた帆高だが、ご丁寧に断りをいれ、部屋を出るなりすぐにスマホを取り出した。 (律さん、もう終わったかな) 予想以上に時間が掛かってしまった。 もう彼は家に帰ってしまったかもしれないと不安になりながらも、すぐに【終わりました、事務所に戻ります】とメッセージを打ち込むと、思いの外すぐに既読の文字が画面を照らす。 【事務所に居る。気を付けて戻って来て】 簡素な言葉だが、これだけで口元が緩んでしまうのを感じる。 「う、うぅ…、」 尊いと言う文字が頭上に浮かぶ帆高の足取りが仕事終わりにもかかわらず、軽いのは当然の事。 事務所が見えるくらいに近づくと、小走りにエレベーターへと飛び乗った。 「お、お疲れ様、です」 もう二十時を回った時間。 そろりと中を覗けば、社長であるコウがコーヒー片手に、こちらへと安堵感を感じる笑顔がお出迎え。 「おう、お疲れ様ぁー」 「遅くなってすみません」 「いやいや、男の一人暮らしの家なんて掃除のし甲斐があったろ」 「はは、確かに」 そんな他愛も無い話をしつつ、報告書を取り出しながら、くるりと事務所を見渡せば、ソファでスマホを弄っている律の姿に帆高の肩から力が抜けて行く。 「お疲れ」 「お疲れ様です」 コウとはまた違った安心感は何処から来るのか。 無意識に口元を緩める帆高に律の眼が三日月を象る。 「報告書は?」 「あ、もう出来てます」 最後は帆高のサインのみ。 さっとシャチハタを押し提出すれば、一通り確認したコウが笑顔と共に親指の腹を見せた。 「おっけーおっけー!!じゃ、お疲れ様ぁー!」 「はい、失礼します」 「俺も帰ります」 「ーーーーえ、」 報告書をファイリングしていた為に反応が遅れてしまった。 ばっと顔を上げ驚いたように眼を見開くコウだが、そこには既に誰も居ない、ただの静まり返った事務所に自分一人。 (りっちゃん、もしかして公文くん待ってた、とか?) あんなに他人に無関心な男が? バイト仲間の誘いだって一言目で断るような男が? 「ーーーーーえ?」 間の抜けた声が響くのみだ。 店や街頭の灯りを頼りに夏特有の蒸された熱と少し湿った空気を感じる夜道。 二人して並んで帰るこの時間は相変わらず帆高の緊張を高めてくれる。 それは勿論隣に律が居るから、と言う理由ではあるのだが、決して悪い意味では無い。 「遅かったな」 「意外と手こずりまして…待たせましたよね、申し訳ないっす…」 「別に。コウさんと仕事の話とかしてたし、それに、」 ーーー待つのも悪くない。 美人からのお言葉に毎度心臓を生搾りされるからだ。 ふぁ…っと漏れ出そうになる声を唇を噛み締め耐えるも、頬が痙攣を起こすと言う奇怪な動きをしてしまうも、それも仕方が無い。 先日は『待ってて』、その前は『俺が待ちたいから』と、推しからそんな言葉を投げかけられれば嬉しくない筈が無い。 「あ、ありがとう、ございます…」 「恋人なんだし、普通でしょ」 「……、そう、っすね」 尤も、今だにこの恋人と言う関係性に疑問はあるのだが、 「帆高」 「はい、」 「キスしよ」 「ここ、外…」 「誰も居ないから」 「……まぁー…そうっす、ね」 受け入れ態勢を取ってしまう帆高は、自分の唇に重ねられる律の体温に何も考えられなくなってしまう。 ほんの数秒だけのそれだが、耳までもが熱くなり、ふふっと笑われれば、何処から出てきた感情なのか、目元までも熱で覆われてしまう。 「キャンプさ、」 「え、あ、はい」 再び並んで歩き出し、不意に口を開いた律をちらりと見上げれば、街灯に照らされた横顔があまりに現実的な美しさでは無く、胸から迫り上がってくる何かに平伏しそうになる帆高の忍耐は耐久力を静かに上げていっているなど、原因である本人は知らない事だろう。 少し間を開け、律は帆高へと視線を寄越す。
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