白いテープの行方

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ちらっと見た程度だと思っていたが、どうやらその美形の吸引力に負けて見すぎてしまったらしい。 「…何?」 「え、あ、いや、っ」 視線だけをこちらに寄越し、流し目と言う名の攻撃を仕掛けてくる律にHPを削られながらも、曖昧に誤魔化す帆高は眼光をやられる前に顔を伏せるが、それよりも早く顎を掴まれると無理矢理に首を伸ばされた。 ゴキ、っと小気味良い音が鳴ったと同時に訳も分からず眼を見開く帆高の下瞼にそっと当たる何か。 「隈、出来てね?」 「へ、ぇ、」 律の指だ――。 撫でられる感覚に肩が竦みそうになるが、顎を掴まれた状態ではままならず、ただ潰れたヒキガエルのような声しか出てこない。 「何で?寝れなかったの?」 「い、いや、」 「もしかして何回か起きたとか?」 質問するならば顎の指を外して欲しい。喋りにくい事この上ない。 むぎぎぎぎっとこの美人に不細工顔を晒しているのかと思うと、どんな羞恥プレイよりももっともらしいプレイだな、なんて考えてしまう。 しかし、瞼を張っていた指が次いで口元に這わされた瞬間、びくっと身体が大きく揺れた。 「な、なん、すか、」 「黒子。あるな、っていつも思ってたから」 あらー。 (お気付きでしたか) 絶対に興味無いと思ってた。 そう思わず口を突いて出そうになるのを抑え、ようやっと頭を振り律の指を振り切ると、伸ばされ切った首をぐりぐりと回す。 「寝れたんですけど、朝方何回か目が覚めて…やっぱ寝慣れて無いから」 「へぇ」 「でも、全然寝不足とかじゃないんで」 そう笑って見せれば律も納得したのか、ふぅんと相槌を打ち、すぐにまた朝食の準備に戻った。 内心安堵する帆高だが、はっと何かを察したのか恐る恐る後ろを振り向けば、何とも言えない顔をした大貫が心配そうな眼つきでこちらを見ている。 今の遣り取りを見ていたのだろう。 少し困った風な八の字の眉が帆高の中にある罪悪感を増やしてくれるなんて本人も知らないのだ。 * 夏休みに入ってもバイトは入っている。むしろ稼ぎ時だ。 大海もバイトに精を出しているようで、最近の目標として掲げているのがひとり暮らしだと薄い胸を張って言っていたのは昨日の事。 帆高の家に遊びに来たついでに晩御飯までご馳走になった彼は我が物顔で幼馴染の部屋のベッドの上で声高々にそう宣言してくれた。 どうも大貫のシェアハウスに影響された様子。 憧れを形にしようとしているのか、敷金礼金だけでも自力で貯めようとしている辺りは贔屓目無しで好感が持てるところだろう。 (けど、アイツ家事とか出来たっけか…) 掃除洗濯、料理だってしている所を見た事も無いのだが。 そんな事をぼんやりと考えていると、 「お疲れ様、冷たい麦茶でも飲んでちょうだい」 背後から掛けられた声に頭を下げつつ、首から掛けていたタオルで汗を拭く。 (流石にあつ…) 本日のバイトは庭の草むしりと言う、何ともシンプルな依頼だ。 ただ長い事空き家になっていただけに庭の緑率が異様に高い。秋になったら赴任先から此方の家に戻って来ると言う夫婦も今日は揃って掃除に来てはいるが室内も室内で中々の手応えのある相手らしい。 汗だくになりながら、麦茶を持ってきてくれた女性の肩や頭に乗った埃に思わず笑みが溢れそうになってしまう。 「アイスもあるの、チョコとバニラどちらがいいかしら?」 「あ、じゃ、バニラで」 「どうぞー。ごめんね、真夏の炎天下に草むしりなんて」 「いえ、大丈夫です」 子供はもう手を離れ、それぞれ違う地方で生活しているらしく若い男手が必要だったのだろうが、その割には若い夫婦に見えるのはきっとこのニコニコとした笑顔のお陰だろう。 「えーっと、公文くん?夏休みよね、ちゃんと遊んでるの?」 「え、あー…それなりに」 一気に飲み干してしまった麦茶のおかわりを注ぐ女性に苦笑い混じりにそう返せば、ふふふっと悪戯っ子の様に微笑む女性がいいわねぇ、と呟いた。 「今の時期が一番楽しいんでしょうねー。友達だって、彼女だって。私にもそんな頃あったけど、結婚が早かったからねぇ」 「そうなんですか?」 「そうなの、私二十歳で上の子産んじゃったから、キラキラしてる時期は子育てに費やしたって思ってたんだけどね」 真上から当たる日差しを掌で防ぎながら、ちらっと家屋を覗き見る女性は少しだけ声音を低くする。 「今から夫婦だけの生活になるから、今からでも遅くないかな、って」 ほんのりと赤い頬は暑さから来ているだけでは無いようだ。 「ラブラブってやつですね」 「だって、こう言うのってゴールは無いじゃない?常に白いテープを探して追って進まなきゃっ」 可愛らしい女性だ。 素直にそう思える。 自分の母親にしたって、この夫婦だって、きっと目標と言う訳では無いのだろうが、自分に何事も素直に進んでいるのだろう。 そうだ、あの幼馴染、だって、 (暑い…) たらりとこめかみから流れる汗がシャツの隙間を縫って胸元を滑り落ちるのを感じる。 もうタオルでは吸い取りきれないかもしれない。 (…俺、って) 何やってんだろう。 ゴールどころか、テープなんて探してもいなければ、見つけようともしていない。 誤魔化して、あっちこっちと余所見しながら適当に過ごしているだけだ。 全部、何もかも。 ーーーー律の事だって。 貰ったアイスが少しずつ溶け出し腕を伝い、滴り落ちた先。 土の色が変わっていくのを帆高はぼんやりと見つめた。
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