玉子の見分け方

1/4
前へ
/87ページ
次へ

玉子の見分け方

きちんと言うべきかもしれない。 『律をそう言う眼で見ている訳じゃなかった』『推しの対象だ、綺麗な人だと惹かれてしまっただけ』『だから無理しなくていい』 脳内でシミュレーションは完璧だ。 あとはこれを嚙む事なく言い切れるかが問題なのだろう。 普通の顔をして、何でもない風にきちんと律に告げれるだろうか。 何度となく出てくる溜め息の原因に終止符を打ちたい。 (けど、好きな人が居る癖に男の俺と付き合うなんてよく思えたな、あの人…) 正直問うてみたいが、今更だろう。 困らせたい訳では無いのだ。 それに彼と過ごした時間は決して悪いモノでは無かった。むしろ楽しくて一緒に居れるのが嬉しいとすら思え、ほんの少しではあるが名残惜しさだってある。 スマホのメッセージも当たり前に入っている。 【お疲れ様、明日は一緒に帰れそう】 【わかりました、今日は先に帰ります】 夏休み故か、中々時間が合わないのは仕方ないと、律儀に返事を返す帆高も何だが、また新たに出て来た溜め息と同時に帰宅したリビングのドアを開いた。 そして、そこには床に平伏した母の姿が――――。 (…………家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています、リアル実写版…) いや、妻じゃないけれど。しかも小刻みに震えている。 きっと原因は掌に握りしめられているあのスマホ。 「……何してんの?」 本当は関わりたくないけれど、見てしまったからには一応のお伺いは必要かもしれない。 「…………った、」 「は?何て?」 冷蔵から冷えた麦茶を取り出し、コップに注ぐなり一気に煽った帆高は訝し気に床に転がる母を見詰める。 一体何だと言うんだ。 「だ、っ、い、した…」 「何、脱稿?」 どっかの同人誌作家かよ、と一定の界隈しか知らないようなツッコミを掛ける息子をじろりと睨み上げた母の眼は鋭く、そしてその瞼は赤く腫れあがっていた。 「え…泣いてんの?」 「だ、って、だって、私の推しが…!!推しがぁぁ、脱退するって言うがらぁぁぁぁあ!!!!!」 「あー…………」 ―――――なるほど。 「いぎなりなんですものっ!!いぎなり、ファンクラブからのお知らせでそう届いてっ!!年内いっぱいで活動辞めるっでぇぇぇ!!!」 帆高の入れたアイスコーヒーをぐい飲みしていく母のおいおいと咽び泣く姿に息子として一体どんな言葉を掛ければいいのやら。 与えたタオルも既にぐっしょりと水を滴らせる勢いだ。 「もうショックでショックで、私はこれから何を追っかけたらいいのよぉぉぉぉ!!!!引退とかだったらどうじよぉぉぉぉぉ!!!!!」 お魚咥えた猫なんてどうだろう。 勿論だがこんな母に言える筈も無く、やれやれと肩を竦める帆高はちらりとキッチンと見回した。 この調子ではきっと夕飯の準備なんてしていない筈。だったら、ここは自分が男の料理でもした方がいいのだろう。 (料理なんて殆どしねーから分かんないけど…) けれど、この調子では具材と一緒に自分の指の一本や二本落としかねない母親よりも断然帆高の方が安心、安全。 「仕方ねーな…晩飯は俺が作るから、」 「ご飯なんて食べれるかしら…!!もう、胸がいっぱいなんだけどっ!!!」 「……あぁ、そうかい」 ぐずぐずと子供の様に嗚咽を上げる母親を前に何とも複雑になるも、推しと言う存在の偉大さに今頃気付いた帆高の心情はこれまたモヤっとするものだ。 (………俺、こんな泣くような気持ち…あの人にあんのかな…) 自身に問いただすも答えは出ない。 むしろその疑問だけが思考を占領するかのように膨らみ、頭まで重く感じてしまう。 と、不意に聞こえて来たのは母のスマホの着信音。 ずずずーっと鼻を啜りながらスマホを操作する母をぼんやりと眺めていると、今の今まで泣いていた所為か、ぱんぱんに腫れた瞼が然程開きもしないのだが、ほんの少しだけ持ちあがると、口もぽかんと開かれていく。 「え、やだ…っ、嘘…っ」 「――何、どうしたの?」 画面に映る全文を読み終えたらしい母親の頬がどんどんと紅潮し、その表情もまさに明るく、椅子を蹴倒さんばかりに立ち上がると興奮しきったガン決まりの眼をぎょろりと帆高へと向けた。 「お、推しが、個人で活動する、ってっ!!!!!引退じゃないっ!!ちゃんと個人で持ってるメールでお知らせが来たわぁ!!!」 「―――――あぁ…」 まだ来年になっても推しの活動が追える。それが溜まらなく嬉しいのか、先程までとは打って変わって、身体中で歓喜を表す母親はよしよしと瞬きひとつせずにスマホからの情報を読み取っている。 顔は動かず眼だけが上下する様は、正直恐怖だ。 まさか自分もこんな風に律を見ていたりしていないだろうな、と不安になるくらいに。 しかし、元気になってくれたのならば結構。 いつまでもうじうじとされていては家の中がカビの温床となってしまう。キノコが生えて来ても食材は浮きはしない。 「…ま、良かったね」 どっちみちこの浮かれようでは食事は矢張り帆高が簡単に何か作った方がいいだろう。冷凍食品はあったかなと冷凍庫の中を探る中、 「あー…本当に嬉しい…”!!しかも推しって個人で活動がしてみたかったんですってっ、どこまで自分でやれるかっ!!」 「ふーん」 聞いてもいない事を教えてくれる母に適当な相槌を打つ。 こうしてみると結構余計な買い込みもあるようだ。 「この子が希望してたんなら、やっぱり応援しないとね。グループを抜けるのは寂しいけど、推しの幸せの為、夢の為だものっ!!!」 「……ふーん」 見つけた餃子の賞味期限を確かめながら、帆高は『推しの為、か…』と小さく呟いた。
/87ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2565人が本棚に入れています
本棚に追加