猫は笑う

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猫は笑う

八月の終わりだろうが何だろうが夏に変わりはない。 朝起きた瞬間から目覚めた太陽は全力で生き急ぎ、茹だるような暑さを感じさせる外は動くのも億劫ならば人と接触するのも嫌気が差す。 しかし空調の効いた部屋では、そんな暑さ等微塵も感じる事は無く、さらりとした肌触りの良いシーツに寝起きの頭を擦り付けても不快感は無い。 そして、腰に回る体温と腕に当たる髪も心地良く、重たい瞼を持ち上げると、起動したてのぼうっとした頭でも即座に理解出来る顔面の強さが飛び込む。 長い睫毛と毛穴なんて無いかのような白い肌。 そっと手を伸ばし顔に掛かっている藤色の髪を後ろに流すと、ほんの少しだけ身じろぐも相手の眼は開く事は無い。 (ーーー好き、だなぁ) あれから一夜明けても、その気持ちに変わりはない。 律のした事が世間一般的には非難される事であっても、帆高から見ても狡いと思う行為であってもどうしても勝利してしまった『好き』と言う気持ちの方が強く、それにまた彼も同じ気持ちになってくれた事が至福となって舞い降りてきてしまったのだから、もうこれはしょうがない。 (ーーーさて、) そして、本日帆高がやる事は決まっている。 出来るだけ振動が起きぬようにベッドから抜け出し、自分のバッグを探る。 昨夜急に友人の家に泊まるとだけメッセージを送っていたアプリには母からの若干の小言が入っている。 その他には大海からもメッセージが一件と、コウからのシフト変更のお伺いが一件。 (まずは、バイト辞めなきゃな) 急に辞めるなんて責任感もクソも無い所業だろうが致し方ない。 (律さんの連絡先も削除…あ、ブロックの方がいいか…) これ以上惨めになるのも、これ以上自分を嫌いになるのも嫌すぎる。 律から借りていた服を脱ぎ、自分の服に着替える。 夏だからと洗濯し、きちんとハンガーに掛けてくれたのは律だ。 面倒見の良さにじんっと鼻の奥が痺れるも、こんな事で時間を使っている暇はない。 いつもの鞄を斜め掛けし、音を立てぬ様に寝室を抜け、リビングをぐるりと見渡した帆高から漏れる溜め息はどちらの意味を含んでいるのか。 そのまま玄関へと向かい、並んでいる靴の中から少しヨレているスニーカーに足を入れ靴紐を結ぶ。 下を向いた為か、先ほど感じていた鼻の痺れがもっと濃くなり、少しだけ震える唇。 (此処を出たら、律さんとはお別れだな) でもそうしなければならない。昨日の話、正直律が自分にどんな理由で付き合ったであれ、本当はどうでもいいのだ。 謝罪だってしてくれた、元カノにだってちゃんと決別をしてくれた。 だって、好きだと言ってくれた。 自分が好きな人が好きだと、奇跡の様な出来事だ。 その事実だけでも本当ならば咽び泣きたくなる程の幸福。 でも、駄目なのだ。 (俺も狡い…) 全てを見せてない。 折角自分を好きになってくれたと言うのに、全てを律に打ち開ける事が出来ない。 最後の最後、言いたい事も言わずに逃げるなんて、これこそ卑怯の極みだが律に露骨に嫌な顔をされたり迷惑だと思われる方が余程嫌だ。 (このまま付き合ったってどのみち駄目になる…) じわりと視界がブレる。 たぷたぷに溜まった涙が情けなさを余計に感じさせるのが辛い。 駄目だ、本格的に泣いてしまう前に家を出なければ。 ずずっと鼻を啜り、手の甲で目元を擦り、ふんっと勢い良く立ち上がった帆高はドアノブを握った。 (一回くらい、エッチしたかったなぁー…) 初めては好きな人と♡ なんて訳ではないが、最後に考える事がこれなんて。 何故なら健全な童貞男子。 一生童貞でも良いから律と、と思わない訳が無い。 それにこの先、男女含めた所で律以上に好きになる人が居るだろうかと思うところもあるからだ。 (はぁ…) けれど、この恋は恥じるものでは無い。 そう、それだけで十分。 ドアノブに力を込め、ここも慎重に扉を開こうとした瞬間。 ーーーーーーガァンっ…!!!! 「ーーーーーーーーーっ!!!!!!!」 声にもならない驚きと言うものを初体験。 大きく跳ね上がった身体と心臓が比例し、どっくんどっくんっと息まで荒げる。 扉に掛かっているのは脚。 その脚の重みで扉は開く事は無く、はぁはぁっと驚きから変質者の如く浅くなっている呼吸の侭自分の背後から伸びているであろう脚を視線で伝う。 ゆっくりとその視線が這った先に、居るもの。 誰かなんて考えなくても分かる。 むしろ想像した以外の人間だったならば、本当の意味で恐ろしい。 「り、律、さん、」 「……何してんの?」 寝起きの顔でも既に完璧。 いや、寝起きだからこそ少し険しめの、不機嫌そうな表情と鎖骨ラインが見えるラフな格好がやたらと色っぽいなんて思ってしまう帆高はどこまでも男の子だ。 「お、はよう、ござ、」 「何してんの、って聞いたんだけど」 人間関係を円滑に築く挨拶も跳ねつける声は地を這う程に低く、それが帆高の首を絞めるかのように呼吸がし辛い。 「帆高」 「っと、あの、えー…コンビニ、行こう、かな、って」 「黒子」 「へ、」 「黒子触ってる。考え事してる時もそうだけど、誤魔化そうとしたりする時もよく触ってるよな」 「ーーーーーあ…」 思わず詰まった声は肯定。 ひくっと強張った顔の侭、しどろもどろに口元から指を離し、肩から伸びる鞄のベルトを握り締める帆高に律の視線が鋭く刺さる。
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