猫は笑う

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湯気が充満する室内で暖かい湯に浸りながら、ぼんやりとオフホワイトの天井を見上げる帆高の顔には明らかに疲労が見え隠れしている。 疲れを取る為、命の洗濯とも謡っているであろう風呂がまさかの疲労困憊の原因になるとは。 尤もそれは律が『一緒に入る?』と入口付近まで見送りにやって来たからで、帆高自身大袈裟に反応してしまっただけではあるのだが、何とも言えないこの焦燥感。 (…つか、俺、まじでやんの?) 脳内に『やるのかい?やらないのかい?』と上腕二頭筋を見せつけてくる男が浮かぶも、流石に答えようがない。 このバスタイムで自分の運命が決まってしまうなんていかがなものか。 多分、いや、きっともう少し時間が欲しいと言えば、律はすんなりと引いてくれるであろう。 でも、『したいのかい?したくないのかい?』と問われ方をされたなら、 (それは、したい…っ!!!) だって、相手は律だ。 一度は付き合いを諦めた律との行為。 実を言えばスマホで男同士の遣り方だってリサーチ済み。スクロールする画面を見ていく中、蒼褪めたのも一瞬の事で、律に置き換えればすぐに興奮してしまった帆高の帆高は十代男子、素直過ぎる。 ただもう少々時間は頂けると思っていたのだ。唐揚げだって半日くらい調味料に漬け込むではないか。 うぅーっと言葉通りに頭を抱え、湯の中で背中を丸める帆高だが想像した事が想像した事だけに既に反応し始めている自分の物にまた頭を抱える。 けれど、セックスしたいと律が言ってくれている。 あの綺麗な顔で、あの唇が帆高としたい、と。 (本当…解釈違いなんだよなぁ…) ーーーーガンジーが助走を付けて蹴りを入れてくるくらい。 もしかして、だが、 (あの人…性欲強い?) 当初から感じる違和感は否めないものの、ごくりと喉を鳴らす帆高は逆上せそうなくらいに温まった身体をゆっくりと湯舟から出した。 * 「で、どう?」 お風呂頂きましたからの開口一発目がその質問。 まだ髪もしっとりと乾ききっていない中、頬が引き攣れせる帆高はおいでおいでと振られる手に誘われるがままにソファへと腰掛ける。 「乾かすから」 「え、あっ、ありがとうございます、」 律の手にあるドライヤーから流れる温風。 髪を乾かして貰えるとは贅沢だ。しかも律の長い指が髪を梳く感覚にこれは確かにモテると改めて実感と共に感動から咽び泣きそうだが、鼻水を垂らしている場合では無い。 「あのー…」 「うん」 やっぱり今日は無理だ。 だって、今冷静を装ってはいるが、本当は心臓がバクバクだ。伊達に童貞を舐めないで欲しい。 そりゃ律は手慣れているだろう。 風貌もそうだが、自然と恋人の髪を乾かせる男なんて、きっと数えきれないくらいにこなしている筈。 でも此方としては出来れば手順を踏みたい。 このまま突き進んだとしても未経験の帆高ならば手順どころか地雷の上をタップダンス状態になってしまうかもしれない。誰がそんな結末を望むだろうか。 折角風呂まで用意してもらい、服まで借りているがお断りさせていただこう。 きゅっと唇を噛み締め、拳を握る。 近いうちに、そうだ、自分でも準備をしておこう。 (あんまり手間掛けさせたくねーし…) 幻滅されるのも嫌だし、面倒だと思われたくはない。 カチっとスイッチが切れる音に弾かれるように頭を上げた帆高は律の方へと頭を上げた。 「あり、がとうございます、それで、ですねっ」 「うん」 くるりとドライヤーのコンセントを指に絡めていく姿だけでも白米が美味そうだ。 「今日、せ、っくす、ですが、」 「うん」 「お、俺、やっぱ初めてだし、」 「うん、俺も初めてになるな」 「ーーは?」 「俺も男は帆高が初めてだし、一緒にやろーぜ?」 ドライヤーの熱とは全く違う、重ねられた手の温かさ。 ふふっと微笑む唇がゆったりと持ち上がり、首を傾げればさらりと流れる髪から仄かに鼻腔をくすぐる香り。 自分の身体と同じ匂いなのはお泊まりの証。 ひゅ、っと喉奥に飲み込まれた声の代わりに、頷いてしまったのは果たして自分の意思なのか。 それとも誘われたのか。 いや、そんな事どうだって、いい。 (も、どうーにでもなれじゃんかよぉ…!!!) まさしく、心臓ど真ん中。 初めて律を見つけた時のように、どくんっと大きく耳元で感じた鼓動。 撃ち抜かれた胸を抑える息の浅い帆高にまた眼を細めた律がいつの間に用意したのか、すっと差し出したスマホは見覚えがあるもの。 「ーーへ、何で、俺の、」 「外泊するって、家に連絡しろよ」 今すぐーーーー。 口を閉じるのも忘れ、こくこくと頷く帆高がぎこちない動きながらもスマホを耳に充てるのを見遣り、満足そうに全てのパーツを三日月に象り笑う律の様はまさににやりと笑う猫のようだ。 勿論帆高はそんな事に気付く事無く、 『は?お泊まり?あんた最近泊まりが多くない?もしかして彼女出来たとか?』 「ち、違う…け、ど、」 『そうよね、あんただもんねっ、あははははは。あ、やば、推しが出た』 本日も元気にオタ活を行っている絶好調の母親にぎりぃっと歯軋りを聞かせるのだった。
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