甘い蜜は飴に非ず

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『一度ヤっただけで彼女面するのって参るよな。どういう神経してんだろ』 いつだったか、ぽつりとそう呟いた律の言葉を思い出しながら、大貫は拭きあげていたグラスを掴む手に力を入れた。 小さくメシ…っとなった音に慌ててそれをグラス用のショーケースに並び入れると改めて目の前でアイスティーに口付ける友人をまじまじと見遣り、ごくりと喉を鳴らす。 「へ、え…?」 「何だよ」 「え、え、えええ?お、お前マジで公文くんと付き合ってたのか、っ、菜穂ちゃんを諦めさせる為の嘘じゃなく、て、」 「最初から嘘は言ってねーよ」 「え…、えぇぇぇぇぇ…」 バイト先のカフェに来て欲しいと律を呼び出したのは大貫。 それはきちんとした目的があっての事だ。 どうやら菜穂が大学のサークル仲間や共通の友人達に律との事を取り持ってもらおうと画策していると言う話を聞いた為。どうも大貫だけでは埒が明かないと踏んだらしい。 なんて諦めの悪い女だと呆れてしまった今、こうなってしまっては律の後援に回るのは友人として当然だと思っていた大貫だが、此処に来てまさかの真実に呆然としてしまう。 しかもそれだけではない。 この綺麗な男からの宣言。 『俺さぁ、菜穂みたいになってる』 『帆高が何してるとか、誰と居るだとか、気になって仕方ねーわ。やっぱ同棲しかないよな』 どういう事? 同性? 同姓? 同棲?これが正解? え、そう言う事? 普段は鈍い脳筋だと言うのに、どうして今日に限って推理が冴えわたってしまったのか。顔を引き攣らせる大貫だが当の律はふふっと御機嫌な様子が伺える。 「つか、何、菜穂ちゃんみたいって、お前が一番嫌がってたんじゃねーの…?」 気を惹くための行為から始まり、嫉妬させたいが為に自由奔放に振る舞ったり、そこからの束縛行為。 疲れたとぼやき、げんなりとしていた律を未だはっきりと覚えているのだが。 「そうなんだけどさ。帆高と一緒に居たらもっと一緒に居たいだとか、居ない時間がしんどいとか、思い始めてさ」 「え、えぇ…」 「駄目だな。一回やったら余計にそう思う」 「ーーーーへ、ぇ、」 グラスを揺らし溶けかけている氷をカラリと回す律のいつもは無機質な眼に宿る濃い色味。 「セックスなんて排他的、生理的欲求のひとつ、延長線上にあるのが恋人同士の愛情確認みたいなもんかと思ってたけど、」 ーー帆高とは、何か違った気がした。 何が違うのかと問われたら『こうだ』と説明し辛いのだが此方に気を遣ってか、必死にしがみ付きながらもながらも時折安堵させるかの様にへらりと笑って見せたり、鼻を寄せてくる仕草に今まで感じた事の無い、ぐっと胸の当たりから迫り上がってくる何か。 今まで他の誰かと身体を幾度と無く重ねてきた律でも初めての感覚。 強いて言うならば、気を抜けば『ふわわわわわっわ…』と気の抜けた声と共に口が空いてしまいそうなそれ。 しかもそれだけではない。 朝起きて、目の前に居る帆高が自分と同じ生まれた侭の無防備な姿で寝ているのを見た瞬間、昂ったそれは目頭を熱くさせてくれた。 何だこれは、と考えるよりも前に先に脳内を占めたのは、 (…もっと一緒に居るのってどうやったら出来るんだ?) これだ。 整った真顔で朝日を浴びながら、映画さながらのシチュエーションでこれ。 「ーーーいや、飛び過ぎじゃね、お前…」 「そうかな…何か自分自身色々落ち着かないっつーか、違和感みたいなズレがあるのは分かってんだけど」 「ズレ?」 「頭と行動が伴わないっつーの?」 うん、分からん。 デカい身体を縮ませ、首を傾げる大貫の眉間の皺は深い。 「あれだよ、好きでもない女とでもセックス出来る、みたいな。頭と身体は別ってやつ」 あぁ、今日は暇で良かった。 こんな話比較的若い女性がターゲットのこのカフェには不釣り合い過ぎる。 ひくっと痙攣する口元を指で覆い、赤面する顔を隠す大貫はこう見えても初心なのだ。それなりに顔は良い部類に入るのだろうが、女性に慣れていないのは己の肉体に情熱を注ぎ過ぎた為かもしれない。 「あ、あぁ…そう、まぁ…俺はお前のする事に犯罪以外は口は出来るだけださねーけど…その、何か行動する前に深呼吸でもしたらいいんじゃねーの…あ、腹式呼吸しろ、あれは精神的にも感情的にも落ち着くからさ…」 はぁぁぁ…っと溜め息を垂れ流しながらそうアドバイスするしか無い大貫だが、ふっと鼻で笑う声が聞こえる。 「でも、このズレも別に悪くはねーんだよ」 振り回されているこの感じ。 菜穂にも感じた事の無い感情が全て帆高から発信されているなんて、ゾクゾクするーーー。 (ーーー同棲、なぁ…) 今日は律がバイト、帆高が休み。 合鍵を渡された帆高がその場で膝から崩れ落ちそうになったのは律にもバレたくは無い。何故なら格好悪いからだ。 好きな人には少しでもよく見られたい。 と、言う訳で本日食材を買い込み、手料理で律を出迎えようと気合の入った帆高の鼻息は荒い。 尤もそんなに料理を得意としない帆高が作れるものと言ったらカレーか焼きそば、チャーハン程度だがサラダやスープでも付けたら立派な食事にはなる筈だ。 そろそろ九月と言うのもあり、残暑が容赦なく人間からアスファルからと照りつける。 額から流れる汗を手の甲で拭い、律のマンションまで向かう足取りも慣れたもの。
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