甘い蜜は飴に非ず

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これが当たり前になるなんて奇跡に近い。 全ての奇跡は律から与えられているなんて至福の極み。 その上で一緒に暮らすなんてことになったら、心臓麻痺で死んでしまうのでは? 人生とは全体的に見たらフラットになるように歩んでいるのだと、幼稚園生の頃祖母が言っていた。 山あり谷あり。まさに苦しい思いをして山を登れば、次は楽な下り坂。尤も膝が痛いばーちゃんは下り坂も苦だがな、と御老体ジョークをかましていたが。 ちなみにこのジョークの親戚に冥途の土産と言う有名フレーズがあったりすると気付いたのはその年の夏休みだったりする。 そんな事を思い出しながらまた顎を伝う汗を拭い、みちなりに歩んでいく事数分。 律のマンションの入り口が見えた頃だ。 (――――ん?) 佇む姿に思わず目を凝らす帆高の背筋にぞくっと走った悪寒。 「げぇ…っ」 思わず出た低い声は心からせり上がったもの。 (あの人…、律さんの元カノぢゃん…っ!) 咄嗟に近くの建物に隙間に飛び込み、節者の如くそこから覗き見る。 きょろきょろと周りを見遣り、ふぅっと溜め息を吐く彼女の姿に、じっとりと寄る眉間を意識しつつも、出てくる舌打ちが止められない。 (何、あの人…ストーカー?) ストーカーなんて変質者と変わらない。 己の姿を鏡で見る事も出来ない帆高の偏見に満ちた視線にも気付く事も無く、しばらくうろうろとマンションの入り口付近をうろついていた菜穂だが一度中に入ったかと思えばすぐに出てくると、小さい肩を落とし何処ともなく歩き出した。 オートロックの玄関に阻まれ、律にコンタクトを取っても居ない家主からの返事は貰えなかったんだろう。 (…………会いに、来たんだろうな) 姿が見えなくなったのを確かめ、ひょこっと物陰から出て来た帆高はほんの少しだけ眼を伏せる。 少し浮かれていた気分が沈むのを感じる。 これが水を差されたと言う表現にピッタリなシチュエーションなのだなと何処か他人事と思う反面、矢張り面白く無いと思うのも正直なところ。 (そりゃ…相手は律さんだし…逃がした魚は大きいどころじゃねーだろうな…) その気持ちも分かるだけに複雑化が増す。 帆高の中で静かに広がる染みのような不快感の中、ぎゅうっと握った掌の中にある鍵にはっと勢い良く上がる頭。 預かった合鍵。 小さなそれだが、それが此処にあると言う現実にふつふつと湧き上がってくるのは勇気と共に、 (俺は、部屋だって入れるし、こうやって信頼されてる、って事だよな…) そう、優越感。 何故なら律は優越感も持っていいと言った。束縛だって嫉妬だってして欲しいと言ってくれたのだ。 そして、もう一つ。 (―――大丈夫、大丈夫) 自分自身に言い聞かせるように合鍵をもう一度握り直し、深呼吸を数回。 前に大貫から聞いた腹式呼吸。繰り返せば、すぅーっと腹に溜まった黒い部分も消えていく感覚になるのだから不思議なものだ。 不安に思った所で仕方が無い。 律の恋人である事には変わりない。彼の気持ちを信用したい。 「飯…がんばるかぁー…」 取り合えず今日は夕食を作る事に尽力しようではないか。 作るだけではなく、ピカピカに片付けまですれば花丸が貰えるかもしれない。 ふっと苦笑いしつつ、改めて律のマンションへと向かう帆高からはまた気合を入れ直したのか、荒い鼻息が聞こえるのだった。 * スマホのレシピを参考に作り上げたチャーハンと大根のスープにサラダ。 バイトを終え戻って来た律がリビングに入るなり、くりっと眼を丸くした姿にびしっと姿勢を正した帆高は、眼を泳がせながら口を開いた。 「あ、あの、飯を作ったんで、一緒に、良かったら食べようかな、って」 もしかして重いと思われるのでは、と考えなかった訳ではないが一応恋人のリアクションを待つ時間にごくりと喉を鳴らす。 「ーーーうまそう」 「え、まじっすか、良かったっ、」 ほっと安堵の息と共に力が抜ける身体。 律から今から帰るメールを貰い、タイミング良く出来上がった夕食に帆高から、ふへっと笑顔が溢れる。 結果から言えば悪く無い出来だったと自画自賛。 少々フライパンでの混ざりが悪かったのか、塩辛い米の塊があったものの、嬉しそうに笑う律の姿に次も頑張ってみようかなんて自信も貰えたくらいだ。 食後の皿洗いは二人手際良く終え、デザートにと律が購入してくれていたプリンの甘味をもっもっと味わい、幸福感も噛み締める。 しかもそれも食べ終えた後、おいでと腕を引かれた先のソファで律からぎゅうっと抱きしめられればいとも簡単に天井をぶち抜いた至福に人権だけは無くすまいと唇を噛み締める中、はっと思い出した夕方の光景。 「あ、あの、」 「何?」 顔を持ち上げ視線が合えば、ちゅっと軽いリップ音に一気に思考が溶け出しそうになるも、いやいやと自分の掌に爪を立てた。 だが、あれは言うべきなのか。 元カノが彷徨いてましたよ、なんて。 別に彼女も犯罪を犯している訳では無い。もしかしたらたまたまあの辺を通り掛かっただけかもしれない。 それをあたかも律目当てのように彷徨いていたなんて、流石に悪意ある言葉と思われるかもしれない。 (性格悪いわ、俺…) 渋い顔のまま俯き、しばし顔面で皺を製造していた帆高だが、帆高?と頭上から聞こえた声にふるりと首を振った。 「い、いや、何でも無いです、その、今度はまたいつ会えるかな、なんて、」 「会える云々より同棲の話考えてくれてんの?」 誤魔化したつもりだが跳ね返った来た律からの返しが顔面を直撃する。
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