塩はひとつまみ

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当の本人と言えば、そよ風を受けた風に爽やかな笑み。 (コイツ…マジでキャラ変してるわ…) 尤も、インドア化する前の学生時代の頃の律は確かにこんな感じではあった。 人間関係が煩わしくなって、やさぐれてしまった結果の姿が今の律ではあるものの、でもあの頃もこんなに惚気話をするような男だっただろうか。 「―――つか、その状態で一緒に住んで大丈夫なのかよ、お前」 「何が?」 ようやっとドレッシングも掛かっていない野菜を箸でひとつまみし、がじがじと齧る大貫は眉を潜めると眼を細める。 「恋とかじゃなくて、依存にも見えるからさ」 「お前のプロテインと一緒にすんなよ」 「……………」 誰がプロテイン中毒だ。 苛立ちを隠す事無く、ぎろりと睨み付けると律も少し釣り上げた眦で大貫を一瞥。 「恋だろうが依存だろうが、結果が一緒ならいいんだよ」 「結果?何だそれ」 また実験をしている訳ではない。 人の気持ちを観察するような、もうあんな帆高を試すような事はしない。しないけれど、 「帆高が居ればいいって事」 なんて気障で臭くて、月並みな言葉。 それでも、もし彼と出会う事が無かったらと思うとぞっとする、そんな世界が今は考えられない。 向けられる笑顔に確かに心動かされた自分を今は褒めちぎってもいいとすら思う。 (俺ってラッキー) 上機嫌にサンドイッチを飲み込み、ペットボトルの蓋を開ける律に胡散臭そうな視線を送っていた大貫もはあっと溜め息を洩らすと、代わりにささみを飲み込む。 ああ、やっぱりささみと野菜はいい。 「本当に相性が良い奴って言うのは匂いから感じるらしいぞ」 「へぇ、」 「……何か、お前って」 「何?」 「菜穂ちゃんじゃなくて、公文が初恋みたいだな」 「――――…」 しゃりっと新鮮な野菜が噛み千切られる音がやたらと響く―――。 * エレベーターを降り、いつもの事務所が見えると不思議な安堵感があると共に今日は何やら甘い香りが飛び込む。 「お、公文くん、お疲れー」 「お疲れ様です、コウさん」 珍しく作業着姿のコウが事務所に備え付けてる簡易キッチンで何やら作業する後ろ姿に帆高は首を傾げた。 「何してんすか?」 「いやー九月っても暑いよなあ。今日俺幼稚園の運動会用の設営頼まれてさぁ。さっき帰って来たんだよね」 「ああ、そうなんすね」 何だかんだこの仕事もそれなりに需要が多い。 ホワイトボードにも今日は社員含めバイトも全員出席、それぞれのスケジュールに並ぶ名前に律の名を見つけると、むにりと無意識に動く口角だが、 「で、小腹が空いて久しぶり作ってみたわぁ」 「へ?」 社長用のデスクにドンッと置かれた大皿に眼が動く。 ホットケーキが二枚。 その上からご機嫌に蜂蜜を落とすコウの表情も今にも溶け出さんばかりにうっとりとしたもので、忘れてたと追いバターもたっぷりと。 「あー…至福の時…」 「甘いもん好きなんすね」 「疲れた時は甘いもんだろ。どう一口?」 どう?とお伺いされるも、食わせるのは確定なのか、フォークに刺さったホットケーキの欠片が口元に出されるとおずおずと口を開いた帆高の鼻孔に甘い香りが一気に入り込む。 「どう?」 「あっんまいっすね…」 そりゃそうだと笑うコウから依頼書を受け取り、もぐもぐと口を動かしながらそれを見遣る。 はちみつの甘さもさる事ながら、生地もとことん甘くしてあるらしい。バターも加わり重量感も増した様な食感だ。 「ホットケーキの素にも砂糖加えたんすね…」 「そう、あと塩ひとつまみね。甘さが増すんだろ?」 確かに多少の塩が甘みを強くする、と聞いた事があるような。 こんだけ甘ければ塩が仕事をしてくれるかどうかも怪しいモノだが、満足そうにホットケーキを平らげるコウに帆高は肩を竦めた。 口の中が甘ったるい。 ――――そうして本日も無事にバイトが終了。 (ちょっと…今日はハードだったな…) 依頼書には引っ越し、部屋掃除とあった為、いつもの汚部屋掃除なのだろうと軽い気持ちで訪問した先が、まさかの引きこもりの男性が居る部屋の掃除だったとは。 家族と一緒に引きこもりの息子に向かって何故か出てくるように説得する帆高は第三者から見れば一体何者かと思われた事だろう。 最終的にはドアを蹴破り、父親であろう男が中から喚く成人男性を引き摺り出し、どこぞへと行くのを青褪めた表情で見送る帆高に母親らしき女性から、『今です…今やっちゃいましょう!!』と聞き手によっては悪事に手を染めているのかもしれんと思われる台詞を皮切りに、一気に掃除に取り掛かる事が出来たのだが、 (マジで疲れた…) 必須項目に【出来たら男手が必要】とあったのを今更思い出し、納得も出来ると言うもの。 兎に角雑誌と生活ゴミ、ゲームのソフトで溢れ返った部屋は女性一人では厳しいものだっただろう。 どうも更生施設に送る為の準備だったらしい。 汚れた服やタオル等を両手で担いで洗濯機へと運んでいた母親の形相は凄まじいものだった。 しかし、引っ越し、部屋掃除、間違ってはいないがもう少し説明が欲しかったと思うのは贅沢な事なのだろうか。 ごきっと鳴る首を数回回し、事務所へと戻れば甘いパンケーキで復活したコウが艶々とした肌色で出迎えてくれた。 そして、待っていたのはコウだけではない。 「お疲れ様」 「お疲れ様っす…」 疲弊した心には若干刺激の強い律の顔面に、心臓が持っていかれそうだ。
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