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では、早速近所のスーパーへ、と財布とスマホを適当に鞄に突っ込む。勿論母の教えの通り折り畳み式のカラビナ付きマイバッグも持参だ。
「しっかりしてんね、帆高のお母さん」
「今時の主婦は当たり前なんだそうで」
「へぇ、嫁の心得って母親から引き継ぐんだな」
どう言う意味かと思ったが聞いたら負けな気がする。
「何食う?」
「その、ベタなんですけど、やっぱ蕎麦とか」
「引っ越したから?何それ、すげー可愛い」
「か、わ…」
最近物言いもストレートと言うか、思った事がぽろりと出ているのも気になるが勿論悪い気はしないので甘んじておこうと思う帆高もだいぶ図太くなったようだ。
「手でも繋ぐ?」
「………いや、いいっす」
流石に世間様にそこまで甘んじれないが。
くすくすと帆高の反応を楽しむ律の笑う声に口元の黒子を指先でなぞるも、嬉しさが表情に現れてしまうのか、無意識に口元が上がってしまう。
何とも後ろ姿からでも分かるくらいの初々しい新婚さんの様な二人。両方とも男であり、華奢でも小柄でも無い、立派な青年達だが夕焼けもほぼ姿を隠し濃い藍色が空と空気のグラデーションを占めているというのに、その姿はまるで花でも飛んでいるかのように柔らかい空気が漂う。
「蕎麦だけじゃ足りなくね?」
「タンパク質は欲しいとこっすね…その、チキン南蛮とか…」
「いいよ」
「明日も休みだし、アルコールもいります?」
「買い置きがあるからそれでいいよ」
声からも明るい、浮足立つような雰囲気が見て取れ、近くをすれ違う人間までもが当てられそうだ。
そう、彼等を意識して見ているものならば、どんなに遠くに居てもーーーー。
「ーーーー帆高、」
「はい?」
「やっぱ手繋ぎたいなぁ、俺」
暗がりの中でも涼しげなその眼が三日月を象っている。
こんな人に手を伸ばされて行き場を無くすなんてさせてはならない。出来る人間が居るとすればよっぽど心無い人間か、光栄のあまり失神してしまう輩ぐらいだ。
尤も、帆高と言えば恐らく後者に分類されるのだろうが、今の彼は違う。
恋人の名を貰っているのだから。
「しょーがない、っすね…」
照れ臭さ半分、隠し切れない喜び半分。
差し出された手をぎゅっと握り、薄くなりつつある熱気を振り切るように近所のスーパーへと大きく繋いだ手を振った。
*
ふと目が覚めた瞬間、素肌に感じる温かみと心地良い重みに律はゆっくりと身体を起こす。
重みの原因はこの腹の上に乗っている腕なのだが、その腕の持ち主の顔は此方ではなく、あちらを向いている。
何となく面白く無い、と思ったのか、どうだか。細い指で顎を掴むとくりっと顔を此方へと。
赤い目元に少し腫れぼったい唇。そのすぐ近くには彼のトレードマークでもある黒子がぽつんと浮かび、普段よりも目立っているように見える。
しばらくその寝顔を眺め、もうしばらくは起きないだろうなと思うと、昨日若干張り切って無理をさせてしまった事に反省しない訳ではないが、同棲初日の所謂初夜だと考えてしまったら興奮しない訳も無く、気絶に近い形で落としてしまった。
流石に新調したベッド。
サイズだけでは無く強度にも拘っただけはある。
揃いのナイトテーブルも今度のものは高さがあり、すぐにスマホが見つけられるのも気に入ったポイントのひとつだ。
そのスマホを手に取り時間を確認。
もうすぐ十時になろとする時間にどおりで外が明るい訳だと部屋に薄く指す外光に今更肩を竦めるも、もう一度帆高を見遣る。
規則正しい呼吸に時折、むずっと鼻を動かすのがもっと子供みたいに見えて、ある意味ムラっとしてしまうが、時間はまだあるのだ。
いや、時間があると言う言い方は違うかもしれない。
帆高との時間しか無い、と言うべきかもしれない。
取り敢えず床に落ちている下着を拾い、そのままリビングの方へと静かに扉を開ける。
いつものルーティーンとしてお湯を沸かし、そこからコーヒーを準備するのだが、今日は少々違う。
ソファへと腰を下ろし、スマホを慣れた手付きで操作するとそれを耳に当てた。
何回目かのコールの後、慌てたように電話に出たのか、ゴトっと激しい音の後、
『は、はい、り、律っ?』
甲高い声が耳をつんざく。
前は、ほんの少し前はこんな焦った声も若干外れた声も可愛いと思っていたと言うのに、不思議なものだ。
今では不快に聞こえてしまうのだから。
「菜穂?」
けれどそれを声や態度に出してしまう程律は小さい男でも面倒な男でも無い。
『う、うん』
「朝早くから悪いな」
『だ、大丈夫、そのさっき起きて、メイクとかしてたから、』
「そう」
と言う事は出掛けると言う事か。
あぁ、そう言えばやたらとサークル内のでグループが騒がしかったと思い出す。
律宛てにも直接メッセージが入っていた筈だが今更だ。
「じゃ、ちゃっちゃっと話すけど」
『う、うん、あのでも、今日のサークルの集まり…律は来ないの?良かったら来て欲しいな、って…』
「行かない。そんな暇じゃないし」
『でも、みんな楽しみにしてたし…年に二、三回の食事会なんだよ…』
だから何だ。
何故に自分が食べたいと思わない相手と一緒に食事なんてしなければならないのか。
そんなものただの苦行でしかない。
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