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『私もその、行くし、律は全然普段から集まらないんだから…話とか、』
「うん、ところでさ」
ざくっと軽快な音も立てずにぶった切られた会話。けれどそれを感じさせないのは律の物腰柔らかい声音の為なのか、それともただ普通に御機嫌だからなのか。
『う、うんっ、何…?』
だから返答も少し上擦った、期待の籠ったそれ。
「昨日、見たんだろ?」
『え…』
「菜穂。悪いけど最後の忠告だと思って欲しいんだよな」
最後と言う言葉がどきりと響く。少し浮かんだ気持ちにまるで黒い染みがじわりと侵食するような、言いようの無い不安。
『き、気付いてたんなら、見せつける為の、あれは演技なんだよねっ!どうしてそこまでして私を遠ざけるのっ!』
それを誤魔化す様に咄嗟に反応してしまったのは正解だったのか、不正解だったのか、なんて答えなんてもう意味も無い。
それでも言わなければならない、納得がいかない。
(だって、だって…!)
律はあんな風に笑ったりしない。
嬉しそうに、愛おしそうに、なのに泣き出しそうにも見える笑顔。そんなの一度だって見た事が無い。
浮かれたみたいに、甘い空気を恥ずかし気も無く出したり、律はあんな風に甘えたりしない。
『やっぱ手繋ぎたいなぁ、俺』
ワガママな子供みたいに手を出して、引っ張ってポーズして、手を繋いで買い物に行くなんて、一昔前の食器用洗剤のCMみたいな、そんなダサい事なんてしないのに。
(私の知ってる律じゃないし!)
もっとスマートでおおらかではあるけど、用心深くて、束縛も我儘も言わない、弱味になるような事は露見させない。
優しいけれど、嫉妬もしない、駆け引きだって分かっていても反応もしてくれない。
折角ベースを作った肌に涙なんて流したくないが、じわりと目の周りに熱を感じ、握るスマホに力が入る。
「あのさ、」
そんなどうしようもない感情を持て余す菜穂に掛かる声はどことなく甘い。
思わず、ドキリとしてしまうほどにーーーー。
「俺、あの子と同棲してんだ」
あぁ、好きな相手の事を話せる優越感はまるで麻薬のようだ。
現実味も強く感じ、高揚感が強く湧き出す。
『ーーーえ、ど、』
「だから俺等のプライベート周りウロチョロすんのやめてくれる?」
小さく息を呑む声を聞きながら、ふっと口角を上げる律は穏やかに首を傾げ、窓越しの空を見上げる。
「やっぱさ、俺は何も思わないけどアイツ優しいんだよね。ムカつくくらい。菜穂の顔見たら多少なりは騒つくと思うし」
いい天気だ。
今日はこれからどうしようか。彼の身体がキツいのであれば、DVDでも鑑賞してもいい。
意外と丈夫だからもしかしたら、あっさりとブスくれながらもデートしてくれるかもしれない。
「俺はさ、菜穂。無駄に不安とか心配とかさせたくねーの」
早く電話を終わらせて朝食を作ってやろう。
『ま、まって、律、』
「じゃあね、大学内でも不必要に話しかるとか無しで。友達使ってどうのこうのとか、ウザいからさ」
スピーカーから何か聞こえるけれど、雑音にもならない。
まるで虫の羽音のようなもの。
つまりは、もう気にかける様なものでは無いのだ。
何の迷いも無い指は通話終了の表示を軽くタップし、ブロックまでの設定も流れるような動き。
「よし…」
本当は電話をするのも億劫ではあったものの、昨日自分達の背後に居る菜穂を偶然見付けた律は仕方ないと実行しただけに過ぎない。
(まさか、あんなにしつこいとはな)
別れる時の縋りようも確かに狂気じみていた様な記憶がある。
やだやだと泣いて、掴みようのない言い訳を乱雑に並べて、理解させようともしなければ押し付けるだけの感情にもっと冷めてしまったのは仕方が無い事だっただろう。
(ーーーまぁ、帆高の泣き方もいい勝負か?)
でも、全く違う。
それは惚れたからと言う贔屓目もあるのかもしれないが、帆高は律の全部を受け入れてくれると言う事実が一番大きいのかもしれない。
ソファから立ち上がりスマホをローテーブルへと置き、律はキッチンへと向かう。
買い置きしておいた食パンを取り出し、冷蔵庫からはミルクと卵、そして調味料ラックから砂糖と蜂蜜を取り出した。
「フレンチトースト、とかでいいか」
フルーツの缶詰もあった筈。
そう言えば以前テレビで決めては塩、なんて謳い文句と共にフレンチトーストがもっと美味しくなる、なんて言っていたと思い出しついでに塩も手元へ寄せる。
ひとつまみの塩が甘味を引き立てる、と言うやつだろう。
「ーーーー原理は分かるけど…」
それは食べ物だけの話であればいいのだ。
障害が愛を育てる?
遠距離だからこそ深い愛になる?
不倫だからこそ燃える?
恋敵が居るからこそ、頑張れる?
冗談じゃない。
帆高と一緒に居たいと願う中にそんな余計なものに頼るなんて皆無、不必要。特に帆高が不安になってしまうのであれば守るよりも先に目に付く前に排除一択。
大体帆高の眼に自分以外の他人が好意以外の感情であっても映るのが我慢ならない。
ミルクの入ったボウルに卵を割り入れ、軽く混ぜてから砂糖とひとつまみの塩も一緒に入れる。
食パンは四等分にカット。
喜んでくれるだろうか。
美味しいと言ってくれるだろうか。
せめて機嫌よく朝からキスでもしてくれたら、それだけで甘い一日になるだろう。
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