塩はひとつまみ

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ドキドキと早く鳴る心臓に呼吸も浅くなる。 恋人になってもまだ慣れない、心臓に毒過ぎると唇を噛み締める帆高だが、コウへと報告書を渡すとすぐに律から渡された冷たいペットボトルにきゅっと眼を見開いた。 「暑かっただろ」 「あ、ありがとうございます、」 笑顔の律から得られる何かがある。 ありがとう、良い薬です。 一体律は毒なのか薬なのか。 「確認オッケーだよぉーお疲れ様ぁ、気を付けて帰ってー」 「あ、はいっ」 報告書の確認が終わったコウにいつも通り頭を下げ、律も『じゃ俺もあがります』と立ち上がる。 律の方が先に仕事が終わればいつもこうして待ってくれている。 申し訳ないやら有難いやらと恐縮してしまいそうになる帆高だが、この中身までもイケメン具合がまたたまらないのだから質が悪い。 「はいはい、またねー」 「失礼します」 エレベーターが締まり、機械音が響く個室でぎゅっと握られたのは帆高の手。 勿論律の手に絡み取られたもの。 「引っ越しの準備進んでる?」 「い、一応…」 大学が始まってからここ数日は律の家に外泊はしていない。自分の部屋の引っ越しの準備もさることながら、時期をいつにしようかと模索していると言うのもあるんだ。 「大学始まったし、その、落ち着いて冬休みに入ったらどうかな、とか思ってるんすけど」 「なげぇ」 素早い返答に帆高の口元が引き攣る。 「もっとちゃっちゃとやろ。来月くらい。シルバーウイークとかあるだろ」 簡単に言ってくれるが、同棲してしまったら毎日、24時間近く拝む事となってしまう。今でも心臓がドキドキと小刻みに震えている様な感覚に陥ると言うのに、無事に過ごせたりするのだろうか。 「あの、」 「何?」 「律さん、は、他人と住む事に対して不安とか無いっすか、」 「不安?どんな?」 「いや…四六時中居たら嫌なとこも眼に付くだろうし、幻滅されたら、とかやっぱ考えるし…」 勿論一緒に住める事に嬉しいと言う前提はある。 だが、今まで出来るだけ人とのかかわりを避けていた律が急に人と暮らす事に対応できるのだろうかと言う心配。 もっと距離を近付けて、なんて思う自分が堅苦しいのかとも思うものの、思っているだけでは仕方が無い。 ここはずばりと律に問うてみるのが一番だ。 「帆高は、」 「はい、」 「俺の嫌なとこ見たら幻滅すんの?」 まさかの質問を質問で返す所業。 けれど、反射的と言うか躾けられた犬の如く、考えるよりも先に帆高の頭がぶんぶんと振られると背筋を伸ばした。 「そんな事ある訳ないですっ」 「じゃ、俺がそんな気持ちであってもおかしくなくね?」 「……………あ、な、なるほ、っど…」 太陽も沈み切り、外灯が頭を照らす。 薄暗い通りの中、自分の顔が他人から見られていないと言いと切に願う。 キョどった不細工な、それ。 「―――すげー真っ赤じゃん」 「でしょうね…」 むぅっと眉間に皺を寄せ、悔し紛れに唇を噛む帆高をほくそ笑みながら見下ろす律の機嫌はすこぶるいいらしい。 こうしてほぼ毎日メッセージの遣り取りをしたり、顔を見たりしていると言うのに蓄積されるは倦怠でも無く、多幸感なのが不思議なほどだ。 これが俗に言う、運命ってやつ? 今迄なら絶対に使う事は無かった、いや、思いつきもしなかった言葉が浮かぶくらい。 歴代の彼女から言われた事はあった。 『運命って信じる?私は律って運命の相手だと思うんだよねぇ』 ―――なんて。 運命の意味は分からなかったが、その時は暗示にも似た思い込みで彼女がご機嫌になるのならば良いと思っていた。 けれどもだ。 相手の一方的な感情をぶつけられても、それは運命では無いと今ならはっきりと言える。 自己満足の押し付けなんて需要と供給が伴わないと重いだけ、煩わしいだけ。 でも帆高は違う。こうして一緒に歩くだけでも満たされる何か、そしてそれとは反対に湧き上がる欲求に、正直欲情に近い感情も生まれる。 大貫の言っていたことに信憑性しかない。 「帆高、次の休みは泊まれる?」 「あ、はいっ」 「じゃ、ちゃんと計画立てよう。親御さんの挨拶とか俺した方がいい?」 くるりと動く眼が可愛らしい。 そんなに喜怒哀楽の高低差がある人間ではないけれど、表情が豊かなのが律に胸きゅんさせてくれる。 「え、お、親…親かぁ…そ、そこまでしてもらうのは流石に…」 「でもさ、親御さんも誰と暮らしてるかくらいは気になるんじゃねーの?」 「そう、かも…」 「まぁ、時間空いたら言って」 「りょ、了解っす…」 また赤くなる耳を愉悦に満ちた表情で堪能する、律の誰も理解される事が無い趣味が開催される中、飯だけでも一緒に食べようと近くの飲食店に向かって歩き出すも、ズボンのポケットから伝わる振動。 「…あ?」 足を止めずに画面を確認した律の形の良い柳眉がひっそりと寄る。 「…電話っすか?」 「ほっといていいやつ」 「え、」 震え続けるスマホの電源から落とし、そのままトートバッグの中に放る姿に帆高もぎょっと肩を竦めるが、何でもない顔をする律はそのまま何事も無かったように歩くのだから咎めようも無い。 「大丈夫ですか、あの俺の事気にしないで電話取ったらいいのに」 「いい。面倒だから」 面倒とは? だが、訝しげに見遣る帆高の視線を受け、微笑む律からの唐突なキスは一瞬にして思考は弾け飛んだ。
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