君と飲む一杯のワイン

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 それからパスールは研究に没頭した。ステラはそんなパスールを見守り、家計を切り詰め支える。それすらもパスールは気づかず研究した。  何度も何度も、ワインを熱しては悪い微生物を死滅させる温度を試す。頭が可笑しくなりそうになるとステラはココアを用意してくれる。適度に休憩し、ステラの作る食事を二人で取る。疲れきり布団に寝入り、朝起きればステラはすでに家の中のことをテキパキとこなす。笑い、賢明に、気づかう。  どれだけの感謝をしても足りない。  そして、パスールはとうとう見つけたのだ。 「ワインボトルを60度に温めてから冷却し、ワインセラーに置く。ワインセラーの温度は13度から17度の間に保たせる」  ワインの腐敗は、悪い微生物の環境が整い繁殖することで起こること。ならばその環境を作らないようにすることが大事だ。ワインを煮沸し徹底した温度設定を保つ。そうすることでワインの腐敗が無くなった。  この研究成果に反発していた国も人々も長い年月をかけて認めることになった。 *** 「ステラ、今日は君と私の結婚記念日だ」  7年後。よく晴れた秋。  パスールは安全で美味しいワインを持ち、コルクの蓋を開けた。  木漏れ日が差し込むベランダに丸い小さな机に二人分のご馳走と空のワイングラスが並ぶ。  パスールは真っ赤に染まる煌めくワインをコプコプと音を立て2つのグラスに注いだ。 「君がいたから、ここまでこれたんだ」  パスールは椅子を引き座ると、目の前にいるであろう人を見た。パスールの向かいには、ひとつの小さな写真立て。そこには幸せそうな笑みを浮かべるステラの顔があった。 「君が亡くなって、まだ3年だ」  ステラは3年前の流行り病でこの世を去った。何故、君がと思い詰めることもあった。  それでもここにはステラの生きた証がある。 「飲もうステラ」 ーーええ。いただくわーー  そんな声が聞こえた気がして、パスールは柔らかく皺の増えた目尻を細めた。 「君と俺の20年目の結婚記念日だ」  パスールは真っ赤なワインの入ったグラスを掲げ、誰もいない向かいのグラスにカチンっと涼やかな音色を奏で、祝の杯をあげた。  忘れないでほしい。たくさんの人が苦しんだこと。誰かのために努力してきた者のこと。安心してワインが飲める幸せのこと。 「ステラ、いつもありがとう」  さらさらと優しい風がパスールを包んだ。温かく、優しく、柔らかに、太陽の陽がパスールを照らす。
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