君と飲む一杯のワイン

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──1863年。9月。  フランスの細菌学者のルイ・パスール38歳は皇帝ナポレオン3世からワインに巣食う悪魔の病気について原因を調べよと告げられた。 「酷いもんだ。香りも風味もない、どろどろの液体になっている」  ハット帽に、白のブラウス。襟首にはスカーフ、襟を立てたジャケット、膝丈ズボンに長いブーツを着こなしたパスールは言った。 「うちの実家のワインも悪魔の病気にかかったと聞いたわ」  妻のステラ30歳は、真相困った顔で、ため息をつく。  フランス革命後、ワインは大増産した。ブドウ畑を増やしワインを作りイギリスへと貿易を得るが、その品質はとても良いとは言えなかった。  良質なワインができても環境や気温の変化により、風味が落ちたり苦味が強くなったりと言った被害が出たのだ。それだけではなく細菌による汚染でワイン樽が膨張して白い糸が引くような事例も出ていた。 「まったく。皇帝も簡単に仰せになる」  バスールは頭を抱えていた。それもそのはず、その時代、細菌汚染の腐敗は、悪魔の病気が原因とされていたからだ。風味もワイン樽の膨張も悪魔が腐らせた病気だと信じられていたのだ。 「兎に角、病気解明にはワイン産地に行くしかない」  パスールはワイン産地の近くの工房を借り、徹底的に調べてみることにした。 「私も、ついていきます」  手編みのレースの大きな襟に、薄手の長袖のブラウス、まん中にギャザーを寄せたエプロン。頭はてっぺんに丸く結い上げた、妻のステラも、快く賛同してくれた。  パスールと妻ステラは親同士が決めた政略結婚だった。  子供はいない。  微生物学者のパスールは仕事ばかりで妻の相手を疎かにすることはよくあることだった。  仕事に没頭して何日も帰らないこともあった。ステラは良い顔をしないが決してパスールの邪魔をするような女ではなかった。  夫の不満は近所のおばさまたちにぶつけて発散する。それがステラ。だが、それはパスールの知らないところ。そうして二人は工房へと移り住んだ。
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