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『他のことは考えず、残り少ない愛しい人との時間を、悔いが残らないように過ごしなさい』
優しい微笑みとともにそう言って、先生は僕の頭を撫でてくれた。そんな先生に、止まっていた涙が再び溢れてくる。
もしかしたら弱みに付け込んで、酷いことをされるかもしれない。
一瞬そんな考えが過ぎらなくもなかった。けれどこれまで先生を見てきたこの1年間で、先生がそんなことをするような人では無いことは分かっていたし、何よりもその時の先生から流れて来る思いに偽りがないことを感じていた。だからオレはそんな先生に甘えることにした。本当はまだ深く考えることが出来なかったし、実際どうしたらいいのか分からなかったから、ただ言われるままに頷いてしまっただけかもしれない。
だけどその時のオレは、差し伸べられた温かい腕に縋りたかった。たとえそれが偽りの優しさで、後に酷い目にあわされたとしても、オレはそれでもいいと思えるくらい、オレは先生に傍にいて欲しかった。
それからの時間は本当にあっという間だった。
先生に言われるまま全てのバイトを辞め、オレはできる限りの時間を母の傍で過ごした。
ここ数年すれ違って話せなかった時間を取り戻すかのように、オレは母の元に通い、たくさん話をした。母もそんなオレに優しい眼差しを向け、疲れない程度に話をしてくれた。
オレの知らない父の話やオレの幼い頃の話。
母はまるで少女のように穏やかに微笑みながら父やオレと会えてどんなに幸せだったかを話し、そしてその穏やかな微笑みのまま、静かに息を引き取った。
静かに微笑みながら眠るように目を閉じていく母を、オレは最期まで看取ることが出来たのだ。
それでも悔いは残る。
ああしてあげれば良かった。
もっとこうしてあげれば良かった。
だけど母の最期の微笑みに、オレの心は救われた。
悲しかったけど、仕方がない。
母の最期はもう回避できないことだったから。
だからせめて、笑って見送りたい。
苦しまず、痛くもなく、穏やかに旅立って欲しい。そして母は、その願い通り穏やかに眠りについた。だからオレは、笑って母を見送った。涙は流れてしまったけれど・・・。
その間、先生はオレの傍にいてくれた。
母が倒れたあの日から、オレを先生の家に住まわせ、時に襲い来る恐怖と悲しみに飲み込まれたオレを抱きしめ、落ち着くまで背中を撫でてくれた。
バイトを辞めたオレを金銭面でも支え、生活を共にするとことでともすれば乱れがちなオレの体調の管理もしてくれた。
ただ放っておけなかったからという理由だけで、どうしてここまでしてくれるのだろう。
本当はずっとそう思っていた。
だけどそれを訊くのが怖くて、気付かないふりをして過ごして来たけれど、もうそれも終わる。
母が亡くなり、その後のことも先生に手伝ってもらいながら全てを終えることが出来た。だからもう、ここにいる理由はない。
オレはここを出なくてはいけない。
いつまでも迷惑はかけられない。
だから明日、この家を出よう。
それを告げようと思っていた夜の食卓で、先生は何気ない話をするようにその口を開いた。
「僕も昔、大切な人を病で失ったんだよ」
それは以前にも聞いたことがあった。だからオレを放っておけなかったのだと・・・。
「とても愛しい人だった」
そう言って話し始めた先生の話は、オレの心を締め付けた。なぜなら、その愛しい人は先生の奥さんだったからだ。
これ以上愛せないと思うほど愛した人と思いを通わせ結ばれたというのに、その人との生活はそれほど長くは続かなかった。
幸せの絶頂の中その人は倒れ、呆気なくこの世を去ってしまう。
「何がなんだか分からなかったよ。なぜこうなったのか。こんな絶望があるのだろうか。夢なら覚めて欲しい」
そうして絶望の淵に落とされた先生は長らく悲しみの中をさ迷うことになる。
それでも時が先生の心を癒し、その悲しみは思い出に変わる。けれど心は何も感じないままだった。
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