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「もう誰も愛せないと思っていたよ。僕の心はいつまでも彼女のもの。彼女以外を思うことなんて出来ない」
愛しい人の話をする先生はとても穏やかで、柔らかい笑みを浮かべている。だけどその姿を見て、そして話を聞くオレの心は苦しい。
初めて会ったその時から、オレは先生が好きだ。
母のことがあって一時は心が麻痺してしまっていたけれど、こうして全てが終わりまた心が落ち着いてくると、先生への思いが再びその火を灯し、熱い炎へと変わっていく。
なのに・・・。
聞きたくないと思った。
先生の心に今も住む、愛しい人の話なんて。
だけど言葉には言い表せないくらいたくさんお世話になった先生に、嫌な思いをさせたくない。
オレは懸命になんでもないフリをした。
息ができないくらい胸が苦しくても、平気な顔をして先生の話を聞いた。
「彼女と過した時よりも、長い時が過ぎてもその思いは変わらなかった。その間に再婚の話もあったのだけどね、愛してあげられないのに結婚するのも相手に失礼だと断ったんだ」
それほど先生は、亡くなった奥さんを愛していた。
苦しい。
もうそれ以上、話を聞くことが出来ない。
そう思って先に部屋に下がらせてもらおうと口を開きかけたその時、先生は目を細めてふわっと笑った。
「なのに、講義の度に僕の目の前で真剣に僕を見つめる子が現れたんだ。そしてその瞳が、忘れられなくなってしまった」
優しい微笑みとともに予想外の言葉が聞こえ、オレは一瞬言葉に詰まる。
「熱い思いを乗せた視線を毎回向けられ、それだけでなく頬を赤らめながら一生懸命質問に来るその姿が、いつの間にか頭から離れなくなってしまった」
そう言ってオレの方に手を伸ばすと、オレの頬にそっと触れる。
「講義の時が待ち遠しくなったよ。だけど発情期欠席でその子が来ない日はがっかりしてね」
そう言いながら先生はオレの頬を撫でる。
「この顔を早く見たかった」
先生の言葉が上手く入ってこない。
「僕にその純粋な思いを真っ直ぐにぶつけてくれるその子はいつの間にか僕の心の中に住み、僕の心を奪っていた」
先生の言葉が信じられない。
これは僕の都合の良い夢?
「だけど葛藤もあったんだよ。まだ幼い純粋で無垢な子を、こんなおじさんが奪っていいのだろうか。それにもしかしたら勘違いかもしれない。こんな冴えないおじさんに思いを寄せるなんてありえない、てね」
そう言って先生は僕の頬をむにっと摘んだ。
「だからずっと知らないフリをしたんだ。本当はどうなのか分からなくて。これはこの可愛らしい顔をした子の純粋な勉学への熱意なのか、それとも本当に僕への愛情なのか」
確信もなく突っ走るには歳をとり過ぎている。もし勘違いだった場合、恥ずかしいだけでは済まない。下手したら職を失うかもしれない。それにたとえ間違っていなかったとしても、大学の教授が入ったばかりの学生に手を出すなんて言語道断であり、やはり大学に知れたら職を失う事態になりかねない。
そう思って平静な顔をして知らないフリを続けていたが、事態が急変する。
「目の前で震えて動けなくなっている君を見て、放っておくことなど出来なかった。勘違いでもなんでもいい。たとえ大学をクビになっても構わない。僕は君を助けたい」
そう言って先生はオレの頬から手を離し、オレの目を見つめる。
「このまま僕のところにいて欲しい。出来ればずっと。君の人生を僕に委ねて欲しい」
その言葉がどういう意味なのか・・・僕の望むままの意味でいいのだろうか?
だけどもしかしたら、家族を失った可哀想な学生を助けたいという意味かもしれない。
先生の真意が分からずどう答えていいのか分からないオレに、先生はふっと息を吐いた。
「大切な人を失って悲しむ心に付け入ろうなんてずるかったね。どうも歳をとると断られることに臆病になってしまって、どうにかして自分の思う通りに行くように相手を丸め込もうとしてしまうんだ」
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