果たされないまま

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就職して数年。 マスクをする意味もほぼなくなって。 でもマスクは居心地がいい。 君も、笑顔を作らなくていいから楽だと言っていた。 君はまだあのアパートにいて。 部屋は綺麗に片付けられている。 僕は仕事場の近くに引っ越した。 忙しくて部屋は片付かず、散らかっている。 「今日行っていい?」 『待ってる』 月に2回か3回。 夜9時近くになってから、酒とつまみを買って君の部屋へいく。 君のアパートで風呂を借りる。 君の服を借りて着る。 たこ焼きを焼くことはなくなって。 代わりにうまいつまみを作って出すと喜ばれる。 居心地がいい。 居心地が良すぎて、僕は毎日だって来てしまいそうだ。 月に3回まで。 翌日が休みの日だけ。 他にも、職場の人と約束したり、ゼミの同期や先輩を誘ったり、忙しくして自制してる。 そうしないと、どうしても君に会いたくなる。 酒を飲んで愚痴を聞いて、君は酔って少し子どもっぽくなって。 時々泣いたり怒ったりする。 僕だけに見せる君の顔。 張り詰めた笑顔が消える。 その仮面を剥ぐ時間が、君には必要だと。 でも僕の前でだけにしてほしいと。 善意と利己的な欲求で。 君との関係を独り占めしていた。 桜の咲く春の初め。 仕事終わり。 君にメッセージを送る。 「明日空いてる?」 『あいてるよ』 すぐに返信が来る。 「たまには外で飲まない?」 平静を装って。 明日は君の誕生日だ。 でも君の答えは、それを上回る。 『たまにはお前の部屋いきたい』 既読になってしまった。 えっと。 えっと。 「めっちゃ汚いけど」 『明日掃除しろ』 「狭いし」 『人2人ぐらい座れるだろ』 「布団ひと組みしかない」 『知ってる』 知ってる、か。 『枕だけ持っていくわ』 「じゃあ待ってる」 じゃあ待ってる、って。 送ってから、平気なふりをするんじゃなかったと後悔した。 同じ布団で寝る気のようだ。 自分が床でいいから別にしたい。 酔った君と同じ布団で寝るなんて。 『酒とつまみ買ってく』 いつもと逆だ。 初めてだ。 僕の部屋の場所は知ってるし、2人で飲むのもいつものこと。 でも、今日は違う気がした。 部屋に来た君は、本当に、カバンに枕を突っ込んできている。 酒の入った袋を差し出す。 君が買ってくれた。 初めてだ。 あの約束は、もう忘れているだろうか。 「奢り?」 「泊まるから出すだけだから。  これノーカンだから」 憶えている。 でも今日は違う。 袋を受け取る。 まだ夜風は寒いのか。 君の耳が真っ赤で冷たそうで。 手を触れた。 「僕も酒買ってある」 冷たいのかと思った耳は、逆に熱かった。 首筋も。 マスクを外した頬も。 「誕生日おめでとう」 テーブルには、君の好きな銘柄のワイン。 いつもより強い酒。 今回もまた、理由をつけて。 約束は果たされないままだ。 終
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