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【1.○に山の草書体】
「どう、フィーディング行けそう?」
ほぼ満床状態が続く夏休みの病棟で、口元をきつく結んだ二年目の川西に訊けば、
「すみません。あと30分で何とか」
と通りすがりに呻き、そのまま足早に暗い廊下に吸い込まれて行った。
あと30分も経てばベビーたちが揃って泣き始める。そうなる前にフィーディングを済ませるのがナイト(夜勤)をスムーズに乗り越えるコツだとは川西だって百も承知だろう。今夜は遅番にリリーフを要請し、点滴ボトルの準備や消灯、おむつ替え、夜間一度目のフィーディングなどを助けてもらって何とかここまで来た。それでも全てが押せ押せで結局朝5時の今を迎えている。A側(小学生以上)を見ている三年目の山田の姿でさえもうずっと見ていない。G側(幼稚園生)はA側とB側(ベビー)双方で協力して見るのだが、今日はインチャージ(リーダー)の私が大部分をカバーしている。それほどのいわば"てんてこ舞い”状態だ。
「千夏ちゃんが行けそうか。」
G側が落ち着いているのを確認して記録を見る。股関節脱臼で入院している7カ月の女の子だ。牽引治療目的で入院後3日目になる。まだまだ入院に慣れず眠りが浅く抱っこをして欲しがる。
「家ではお風呂の後6時の授乳で7時間は寝てくれていたのですが」
と目を赤くしたお母さんが最後の授乳をしてくれてから、4時間で起きた千夏ちゃんに一回フィーディングをして、既にまた4時間経過している。
何とか泣き出す前に授乳したい。お湯を先に沸騰させ、滅菌済みの哺乳瓶に粉ミルクを計って入れ、出来上がったお湯を注ぐ。流水で冷まそうと蛇口をひねったところで、G側さんから泣き声が聞こえて来た。慌てて千夏ちゃんの名前と時刻、フィーディング準備であることをメモに書き、その上に哺乳瓶を置いた。誰が見てもわかるように、そして頭に靄のかかり始める時間帯の自分のミスを防ぐ為だ。
速足で泣き声の聞こえてくるベッドに向かう。ロイケミア(白血病)治療で入院中のかの子ちゃんが目をこすっていた。
「どうしたの、かの子ちゃん。起きちゃった?」
泣きじゃくるベットを見ると濡れている。ケモ(化学療法)中で夜間も点滴を流しっぱなしにしているのでこうしたおもらしはよく起こる。
「大丈夫よ。すぐ気持ち良いのに換えるからね」
頭を撫でると、涙の中から黒い瞳がじっと見上げてきた。
「パジャマも着替えようね。お母さんが可愛いのを用意しておいてくれたから」
「マ、ママァー」
号泣が始まった。
しまった。この状態でママのことを言うのは泣けと言っているようなものだ。全く主任にもなってまだこの体たらくとは。情けなく思いながら新しいリネンやお湯で絞ったタオルを何枚か用意する。濡れてしまった身体やぬぐってもぬぐっても溢れてくる涙を拭いて乾いたタオルでくるみ、お着換えとリネン交換を済ませた。ようやくそれが終わった頃、声が聞こえて来た。
「丸山さん、すみません」
使用済みの物品を抱えて振り向けば、わずかに目元の緊張がほどけた山田が立っていた。
「後は私が出来ますんで」
「ほんと?助かる。ちょっとバカなこと言っちゃって、かの子ちゃん泣かしちゃったから。後お願い出来るかな」
「勿論です。やっとA側落ち着いたのでG側見ますね」
「うん、ありがとう。私はちょっとB側ヘルプ入る。千夏ちゃんの授乳してくるから」
「了解です。川西見かけたら伝えときます」
「ん、宜しく」
山田に短く答えて慌ててキッチンに向かう。
フィーディング、ともかくフィーディング。千夏ちゃん、泣いていませんように。キッチンに飛び込んでシンク脇を見ると、あったはずの哺乳瓶がない。哺乳瓶の底の水滴を吸って丸く跡のついたメモと何故かチェックマークが残っていた。
「え?何で?哺乳瓶どこ?」
あ、もしかして川西が気付いて今頃フィーディングしてくれてるのかな。そう思いながら、今度はB側中ほどの千夏ちゃん他ベビー3名が入院している大部屋へと急いだ。大部屋では一人が泣くと、もれなく全員が泣き出しそれはもう大変な騒ぎになる。だから何としても「ふえ…」くらいの半覚醒状態で授乳するのが肝なのだ。
なのに今日はもう本当に後手後手で。トイレに行きたいと思ったのだってもう何時間も前だ。仮眠だって誰も取れていない。ともかく事故なしに何とか安全に乗り切ろう。それだけを頭に叩き込んで病室に飛び込んだ。
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