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あ、誰も泣いていないとホッとしたのと、目の前の光景にギョッとしたのとが同時だった。
「ふ、ふえ」
ともぞもぞ動く千夏ちゃんを抱えたスクラブ姿ががくんと揺れた。
「あ、やべ」
慌てて千夏ちゃんの哺乳瓶の位置を直しているのが見て取れる。きっと頬辺りにずれてしまっていたのだろう。ついでに袖で自分の口元も拭っている。
「さ、斎木先生?」
半信半疑で声をかけると、首だけで振り向いたその顔は夜勤独特のぼやけた白さをまとい、目もしょぼしょぼしていた。でもトレードマークの上がった口角とうっすらとしたえくぼは健在で、こんな時でも上機嫌に見えるから恐れ入る。
「お、丸山さん」
どう見ても優男風なのに意外に低い声がアンバランスで、ちょっと何だかなあといつも思ってしまう。何が何だかなあなのかはサッパリ分からないのだけれど。
「ええと、何をなさってるんですか?」
もうとっくにご機嫌になって、ぐっぐっと音をたてて哺乳瓶に集中している千夏ちゃんを見ながら言うと、
「何って。ご覧の通り授乳ですけど」
さらりと答えが戻ってきた。いつものように。
「今日当直ですか?」
「そう」
「なのに小児で、いいんですか?整形で指名手配されているかも」
指名手配って。クックッと低い笑い声が響く。
「いや真面目な話、大丈夫なんですか?」
「うん、下が優秀だから。何かあれば呼んでって言ってあるし、まだ呼ばれてないし」
お、言い飲みっぷりだねえ、さすが主治医に似たかなどと目を細めて千夏ちゃんを見ている。
「いや、でも何で?」
この人と話す時にいつも感じるじれったさを覚えてついタメグチになってしまった。すると今度はこちらに面白そうな視線を寄越した。
「今日リリーフうちから行ったでしょ?その林田さんが戻ってきて、小児は今夜地獄だって」
「じ、地獄?」
「そう。だから千夏ちゃんの様子見がてら何か手伝えないかなあと思っていたら、達筆なメモが置いてあり」
口角が更に上がっている。あ、ちょっと。
「い、急いでたんですっ」
力めば、
「草書体かと思ったよ。挙句、○の中に山って」
またもやクックッと笑われた。
「速攻で書けて便利なんですってば」
この人はよりによって書道の達人だった。チキショーと握りこぶしを作る。
「丸山さん、ここはいいからさ。他、見て来たら?」
私が夜中口にしていたことを言われて、一瞬肩の力が抜けそうになった。危ない危ない。ホッとなんてしている場合じゃない。
「いや、そう言う訳には――」
いきませんとつなごうとしたところで、千夏ちゃんの横のベットから「ふえ」と声が聞こえて来た。まずい、これは大変まずい。ドミノ連鎖が起きる。
「あ、ええと、速攻でミルク作ってきますから、それまでの間――」
「どうぞ」
さっきと同じようなさらりとした返事が戻ってきた。
「すみません、恩に着ますっ」
愉快そうな忍び笑いを背にキッチンに急いだ。
パンパンだった頭とガチガチだった身体がふわりと軽くなっているのに気付いたのは、怒涛のフィーディングを終え、何だか久しぶりに顔を見た感のある川西からレポートを受け、漏れのない山田からも完璧な報告をもらい、デイ(日勤)のインチャージに引継ぎをした後だった。
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