(一)

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【10:28】  京都府警察本部の一一〇番受理台に入った緊急通報は、指令センターを経由し、同時通報として管轄の下京中央警察署、機動捜査隊、自動車警ら隊、本部捜査第一課に流される。現場は下京区内のシティホテルの客室。女性客が室内で倒れているのをホテルの従業員が発見、死亡は発見者が確認している。他殺、自殺、事故、病死、通報時点ではいずれか不明。同室者の男性は行方不明。女性の身元も現時点では不明。  事件性ありと判断した一一〇番受理台の係官は通報者に現場はもちろん同じフロアの全てを含め、何も触らないように告げ、さらに詳しい情報を聞き取っていく。通報者を現場から遠ざけないために話し続ける。 【10:31】  現場に最も近い位置にいた機動警ら課自動車警ら隊の山本巡査部長、渡辺巡査長の両隊員が現着した。ホテル従業員の案内で七〇三号室に上がる。通報者であるホテルのマネージャーは顔面蒼白のまま携帯電話を耳に当てている。その傍に立っている客室係三名は、警察官の姿を見て安堵と不安の入り混じった表情を浮かべ、それぞれ顔を見合わせる。  かつて鑑識にいたこともある山本巡査部長がズックカバーを装着したうえで先に室内に入る。吐瀉物の匂いと尿臭がマスクを透過し鼻腔を刺激する。  ツインの洋室。ベッド二台の間に倒れている女性は、目も口も見開き、仰向けの状態で硬直している。脈も呼吸も直接確認するまでもない、一目で見て死亡が確認できる状態だった。年齢は二十代――否、十代かもしれないが、自然死でない亡骸はまさに《変わり果てた姿》であり、外見だけでは解らない。バスローブがはだけ、下着はつけていない。首には圧痕。一目で殺しと解る現場であり、保全が最優先。  自ら隊山本より本部。現場確認。女性一名死亡を確認。他殺の可能性が高いと思われます。――《本部了解。現場保全に努めよ》――了解。  あとから来た渡辺もちらりと死体を見やり、山本とともに一旦、部屋の外に出る。まずは部屋を封鎖。ドア前に黄色いテープを張ったところで、今度は機動捜査隊と近隣の中堂寺交番の巡査が到着した。 【10:38】  ご苦労様です。十中八九、殺しと思われます。山本の言葉を受け、機動捜査隊の倉田警部補は現場保全の指示を出す。殺しの可能性がある以上、ドラマのように捜査員がずけずけと現場には立ち入らない。現場の全てが証拠になりうるため、鑑識が来るまでに極力現場を荒らさないことが最優先となる。部屋の保全。廊下の保全。チェックアウトの時間は済んでいるだろうが、同じフロアに宿泊客は残っていないか。渡辺巡査長には各部屋のチェック、中堂寺交番の木村巡査はエレベーターホールでの立ち番、同坂田巡査長は非常口前での立ち番を指示。機捜の相勤である須坂には、通報者のマネージャーと客室係三名を一階に移して事情聴取するよう指示し、倉田自身はさらに後続の到着を待つ。  殺人事件と確定するまではどこの部署が捜査の主幹を担うか解らない。それまでの現場捜査の責任者は、機捜の班長である倉田の任務となる。 【10:46】  当該フロアに宿泊客が残っていないことを確認できたと同時に、管轄の下京中央警察署刑事課から強行犯係の捜査員三名と鑑識係四名が到着する。倉田は鑑識を優先的に現場に通し、自身は強行犯係の捜査員と向き合う。「刑事課長は?」「今向かってます」と答えたのは強行犯係の主任と二班班長を兼務する本田巡査部長。その傍らで強行犯係の若手、栗原巡査は、殺人事件の可能性のある現場は初めてらしく、室内の様子が気になって仕方がない様子でそわそわと足踏みをしている。  倉田の指示で、同じく強行犯係主任の森島巡査部長が一階フロアに下り、宿泊客名簿のコピーを貰えないか責任者との交渉を始める。ホテル側としては個人情報保護の側面から安易な捜査協力には躊躇する。たった一人の被害者とたった一人の加害者の、その二人だけのために、他の客の個人情報を開示することは問題ないのか。ホテルのマネージャーレベルでは判断できず、親会社に連絡し問い合わせてもらうが、最終的には必ず協力させなければならない。最終目標点にいかに早く辿り着くか。相手の事情を与しない、良くも悪くも刑事らしい強引さと忍耐強さで、森島は顔面蒼白のマネージャーをせっつく。  現場の客室に入っていた鑑識係の木島係長は被害者の亡骸に手を合わせ、まずは被害者および室内の写真から開始するよう、部下に指示を出す。被害者が発見された状態の現場の状況を正確に記録していく必要がある。殺人など重要事件の場合は現場鑑識も本部機動鑑識が到着すれば引き継ぐことになる。所轄の鑑識係の仕事は、それまでに正確な現場記録を作ることだ。証拠採取は機動鑑識の指示のもと行わなければならない。  こうして、通報から三十分以内には複数の捜査関係者が各々の役割を担う形で初動捜査が動き出す。その間も、不条理な死を迎えた被害者は、その不条理を体現したままの状態で放置され、時間だけが過ぎていく。
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