(一)

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 下京中央警察署は京都駅や主要国道などを抱える下京区全域を管轄する、京都府警の中でも大規模署であり、久美子の所属する刑事課強行犯係は十二名二班に分かれている。一班はチームで対応が必要な大きな事件を主として担当し、二班は刑事各人が個別の小さな事件を担当することになっている。久美子は二班の捜査員として、主として発生から時間が経っている事件を任されることが多く、被疑者逮捕に急を要しない代わりに証拠収集や証人とのコンタクトが難しいなど、数多の困難な要素を含む事件と日々、向き合っているのだった。ただ、これは適材適所の業務采配というよりは、強行犯係主任兼二班班長の本田巡査部長による独善的な指示によるものだった。本田は四十代半ば、刑事歴二十年弱のベテランだが、人の好き嫌いが激しく、大きな手柄を望まない代わりに小さな失点すらも赦さない、自分の安定したポジションを死守したいタイプの男だ。解決が見込める確実性の高い事件は自分自身か、もしくは同期の河内巡査長、《部活の後輩的》なポジションの小野巡査長、お気に入りの部下である若手の栗原巡査のいずれかに采配し、一方、今回のような困難事案については班員の中で唯一の女性であり異質な存在として認識しているらしい久美子か、組織になじまず逸脱の常習犯であり上司の指示を屁とも思っていない春日成二巡査長に采配している。  警察という巨大な組織は未だに男尊女卑、年功序列といった旧態依然とした体質の根強く残る組織であり、理不尽なパワハラや差別も『熱意』『意欲』『教育的指導』『適材適所』『能力主義』といった言葉の誤用、まやかしによって容認される風潮にある。本田も何かにつけて久美子に対して熱意が足りないだの適材適所だのといった評価をしつつ、自分が担いたくない業務を押し付けてくるのだった。  そこに事件があるということは被害者と加害者がいるということであり、その被害者の無念を晴らすため、加害者を逮捕するために捜査をするということにおいては、どんな事件であっても変わらない。とは言え、刑事も人間であり職業人であり、できることには限界もあるし、やりがいを感じないことに対してはモチベーションを保てない。今の久美子の心情はまさにそうで、加害者を特定できない、加害者を逮捕するに充分な証拠を得ることができないなど、結果の伴わない捜査が続く現状で、仕事へのモチベーションを保つことに苦労する日々だった。  秋風が吹き、近くの公園の木々が揺れる。久美子はその揺れた木々に目をやり、そこからぐっと視線を上げて快晴の秋空を見上げる。  田中美奈は一人で苦しみを抱えてきた。苦しみを誰にも言えず、自分が被害者であるということを自認することすら赦さず、加害者を恨むこともなく、ただひたすら自分自身の責任として抱えてきた時間は、もう取り戻すことはできない。どんな事件も直接の被害は一瞬だが、被害者の時間の流れは止まらず、残りの人生の多くの時間を奪っていく。彼女のためにも何とか加害者を逮捕したいと思う一方、法律も捜査も自分自身にも限界がある中で、果たしてこの捜査を全うできるのか。自分の刑事としての能力は決して高くないと自認しつつも、しかしそれでもベストを尽くしてきた久美子だったが、このところは出口の見えない日々の業務、職場の人間関係の軋轢から生じるストレスにて、ちょっと自信喪失気味なのだった。  とは言え、時間は止まらない。事件発生から時間が過ぎれば過ぎるほど、被疑者には有利に、警察には不利になる。久美子は手帳を開き手書きのTODOリストを眺める。現場確認は終了。次は大学へ行き、件のアウトドアサークルの名簿を手に入れる必要があるが、正面から学生課に当たっても個人情報保護を理由に突っぱねられるのがオチだ。とすれば、学生に直接当たって、何とかサークルの情報を手に入れたいところだが、無闇に動いて被疑者に感づかれるわけにもいかない。さて、どうしたものか。久美子は近くのコインパーキングに停めた自分の車に戻る。プジョー308CC。警察に入職して最初のボーナスで購入した中古の愛車は、自家用だが仕事に兼用され、もう二十万キロ近くの走行距離になっている。ディーラーからは買い替えを提案されているが、まだ動くうちは愛着もあり、手放す気になれずに乗り続けているのだった
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