(一)

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 穂積はマスクの上からでも解る愛想笑いで「ご苦労様」と軽く会釈を返して通り過ぎると、倉田と八木課長に歩み寄る。部下の広西主任を残し、他六名を現場の部屋に上げ、自分は八木に「ご苦労様です。状況、どうですか」などと世間話でもするかのように柔らかく話しかけ、初動の情報整理を始めた。それには倉田が応じる。 「マル害は岸井ゆりあ、十七歳。福知山西高校二年生。連れの男は、宿帳によれば清水洋祐、福知山市在住、二十八歳。現時点では清水の行方は不明ですが、昨夜の二十二時前に非常ドアを開けて外に出る姿が防犯カメラに写っています」 「その他、初動の状況は?」 「機捜と所轄の捜査員が付近の聞き込みと防犯カメラ映像の回収に回っています。JR丹波口とタクシー会社各社に、当該時間帯に清水の目撃情報がないか当たっています」 「了解しました。それはそのまま進めてください。広西主任、ウチはとりあえず、清水洋祐が偽名でなく本名かどうか、住所が実在するか調べましょう。本人への直接のコンタクトは禁止。それから、マスコミには公表しないでください」  穂積は言い、ちょうどエレベーターから降りてきた本部捜査一課の岡本検視官に歩み寄っていく。穏やかな口調、具体的な指示、労をねぎらうささやかな言葉かけ。なるほど、府警内で穂積の評判のよい理由が解る。久美子は立ち聞きした被害者および最重要容疑者のプロフィールを手帳に書きつけておく。捜査会議で共有される情報を一歩早めに得られたところで、手柄に興味のない久美子としては特に高揚感もなかったのだったが、それでも捜査に参加する以上は情報は貴重だ。  その久美子に対する久保田の指示は、現場周辺を経路にしている市バスの運行状況確認と市バス車内のカメラ映像の回収、状況に応じて目撃者捜し。殺人を犯して現場から逃走した男が路線バスを使うことは考えにくいが、あらゆる可能性を一つずつ潰していくことが捜査だ。  久美子は現場を見ぬままホテルを出、愛車を止めたコインパーキングに向かった。京都市内の高額なパーキング代金を自費で清算するたびに憂鬱な気分になり、仕事に愛車を使わず多くの捜査員のように公共交通機関を利用すべきかと思いが過るが、結局は出費よりも便利さが優位になり、愛車を酷使しているのだった。  このあたりなら京都市交通局の九条車庫が管轄になるはず。カメラ映像の確保程度なら電話一本すればいいようなものだが、個人情報保護や振り込め詐欺などが騒がれる昨今、警察を名乗って電話をするだけでは信用してはもらえない。かと言って、ドラマのように直接訪ねて警察手帳一つか掲げれば何でも話してもらえたり、捜査に必要な映像を提供してもらえたりするばかりではない。特に公機関や病院など個人情報に敏感な機関はそうで、必ず正式な捜査関係事項照会書による捜査協力依頼に基づいて情報提供が行われるのが常だ。それでも書類を整えていじる感はなく、せめて映像の提供は無理でもデータの消去をされないよう依頼しておく必要はあり、そのためだけに愛車の頭を九条車庫へと向ける。もともとは千葉県出身の久美子だが、大学進学した十九歳から京都に住み、一方通行ばかりの京都の細い裏路地も慣れたものだ。カーラジオでニュースをやっている局にチャンネルを合わせるが、まだ事件のことは報道されていない。昼のニュースに上がってくるか。  そう言えば久保田は、捜査会議の開始時間を言わなかった。一課が臨場する前で判断ができなかったからか。知らせはちゃんと来るのか。すでに決まっていたが久保田が伝え忘れているだけではないのか。念のため、栗原あたりに聞いておいた方がいいのか。悩みながら緩やかに車を走らせ、大宮通に出る手前で、例によって思わぬところで独断専行中の巨漢の姿が目に入った。
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