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ゆりあ。なあ、何とか言ってくれよ。俺が悪かった。焦ってた。お前の気持ちも考えずに――こういうことはゆっくり話し合うべきだったかな。悪かった。ごめん。ゆりあのことが好きだから、つい――
ゆりあ?
見開かれた二つの目が洋祐をじっと見つめている。否、本当は見えてなどいない。ただそこにある黒い二つの点。目、鼻、口。ついさっきまで、岸井ゆりあとして意志を持って動いていたその目も鼻も口も、手も足も微動だにしない。
洋祐は自分が何をしたか解っていた。カッとなってゆりあの身体にまたがり、両手を首に力いっぱい押し付けた。それだけだ。口答えするから、何も言えないようにしただけだ。
なあ、ゆりあ。起きろよ。俺が悪かった。お前があんまりにも反抗するから、つい。な、起きろ。そんなところで寝てないで、ベッドで寝よう――
自分が今したことは、取り返しがつかないことだ。実感は少しずつ洋祐の指先から身体へ、心へ侵食してくる。もう、もとには戻れない。
俺のこれからの人生はどうなる。自分がしたことがばれたら、明日からの仕事は? お金は? 今までしてきた努力は? 高校のバスケ部で主将になったことも、教員採用試験を一発合格したことも、全てがなかったことになる? そんな人生は耐えられない。
今なら――バレずに済むかもしれないと、冷静に考えたわけではなかった。考える前に身体が動いていた。鞄から出した衣類、持ってきたワイン、車の鍵、スマートフォン、その他諸々、旅行バッグの中に無造作に押し込む。それから、ゆりあのスマホも持って行った方がいいだろうか。俺とのやり取りが記録されたスマホを残しておく方がヤバいか。でも、持っていたら証拠になるのか。いや、データを消してすぐにどこか見つからない場所に捨ててしまえば、証拠になることはないか。捨てる場所はあとから考える。
脳が思考するより先に、手足が自動的に動く。忘れものはないか。ないはず、きっと。
洋祐は廊下に誰もいないことを確かめてから部屋を出る。この日のために予約したシティホテルを、こんな形で抜け出すことになるとは。洋祐は非常階段を一段とばしに駆け下りながら、この期に及んでゆりあのことを思い返す。
遅刻と睡眠学習の常習犯。
一年の担任から受けた岸井ゆりあについての申し送りはその二点だったが、清水洋祐にとって彼女に対する印象は違った。一年のときは担任ではなく、体育の授業でしか顔を合わせなかったからかもしれない。運動部に入っていない生徒としては身体能力も反射神経も優れているほうで、特にバスケットやバレーボールといった球技では、部活動に所属している生徒にも引けをとらないプレーもあったりする。反面、持久力はなくすぐバテてしまうのは、やはり部活動をやっている生徒とそうでない生徒の差で、高校生にもなるとその辺りはさすがに顕著だ。だから洋祐は、女子バスケ部の顧問として、何度かスカウトの声をかけたのだったが、そのたび、ゆりあの反応は「興味ないです」と素っ気なかった。
しかし洋祐は直感的に嘘だと思っていた。興味がなければあれだけ体育の授業では頑張らないし、笑顔もない。本当にやる気のない生徒は、動きに覇気がないし表情に乏しい。真剣にボールを追う目、勝ち負けに伴う喜怒哀楽。少なくともゆりあは、洋祐の目を惹き付ける印象的な生徒だった。
教師と生徒の恋愛なんてうまくいくはずがないことは解っていた。そんなのはファンタジーだ。でも、だからこそ勝手に想像するのは自由だ。実行に移さなければ――そう思っていた。それがよくなかったのかもしれない。想像すればするほど、ゆりあに惹かれている自分がいた。
洋祐は非常扉からそっと外に出る。馴染みのない京都の裏路地。車を止めたコインパーキングに急ぐ。洋祐の頭の中には、つい先ほど自分が引き起こした悲劇のことはまるで存在しない。あるのはただ、ゆりあとの楽しい日々、つい半日前まで愛していたこと、自分の将来への不安――今この瞬間が欠落した思考だった。
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