約束

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約束

 とある科学国家の王都、そこに位置する国立研究所の一室。1人の少年が、掃除や簡単な実験を熱心に行っていた。――否、熱心というより、心ここにあらずという状態でひたすら手を動かしていた。何故ならずっと、彼はある人物を待ち続けているからだ。  この少年の師が旅立って1年以上。彼は未だに便りを待っていた。……ただし、周りは皆、彼の待つ師がもう死んだと思っている。  だが、何を言われても少年の返事は決まっていた。 「先生が、帰ってくると言ったんです。だからきっと、もうすぐ戻ってくれますよ」  彼は頑なに、師の帰りを待ち続けていた。その間、他の師を探せばどうかと何度も諭された。王都には勿論素晴らしい人物が大勢いて、わざわざ声をかける人もいる。それほど、彼は非常に優秀な助手だと有名だった。  師の居場所について、何の手掛かりも無いのは確かにきついものがあり、少し迷ったこともある。だが、どうしても彼には駄目だった。新しい師を探そうかと悩んでも、結局皆どうでも良くなってしまう。  出掛けた時には必ず日没と同時に帰室していた師の影を、少年は常に窓から探している。そして毎日、酷く落胆しては後片付けをするのだ。  彼の師は1年前、15光年先の惑星へ旅立った。国家の技術では往復1ヶ月もかからない場所だ。探索の期間を考慮しても、1年は余りに遅すぎた。まして何の便りも無いとなれば、皆が事故死と考えるのは当然だった。  それでも彼は信じていた。何か事情が変わったなら、連絡さえあれば幾ら待っても平気なのに、と独り言ちながら。そもそも、宇宙船が大破するなどのトラブルがあれば、研究室に警告が入るはずだった。そして、その兆候は今まで一切無い。だからこそ、彼は師の無事を信じ続けていた。  いつも通り、独り言で文句を言いながら実験室を掃除していたとき。重たい真空瓶を抱えた彼は、持病と化した腹部の鈍痛にへたり込んだ。どうせすぐに治まるんだと強く自分に言い聞かせる。師の居ない空間は彼には静かすぎるのだ。迫り上がる胃酸をやり過ごし、ピルケースの薬を飲み下す。  途端、耳慣れた着信音が響き、無線での事務連絡と共にいつもの小言が始まった。このフロアを管理している上司からだった。 「君は優秀だ。そろそろ他所へ移ったらどうかね」 「……今更僕に、何処へ行けと言うんですか。僕は先生から何か聞くまでは、何も変える予定はありませんから」  装着したインカムを小突き、師からの新しい着信が無いか確かめる。1日に何度も何度も彼は同じことを繰り返していた。  しかし、彼から無線を入れる度胸は全く無かった。何度も開いてはアイコンに触れられず閉じている回線画面を、彼は睨み付けるように見ていた。 「お前がいるから、私は安心して調査に行ける。頼んだぞ」  操縦桿を握って笑った顔が、彼の脳裏から褪せることはない。強く、深く、楔のように突き刺さっているのだ。  一度だけ少年は、無線機に向かって録音を残した。一言でも返事があればいい、と願いながら。帰れない理由が出来たなら、教えてほしかった。  録音を送信するとき、エラーは出なかった。つまり、正常に宇宙船で受信されたということだった。やはり機体は無事の可能性が高い。  たとえ光年単位で離れていても、数分経てば届くはずの通信技術。だが、彼が何時間待とうと音沙汰がない。さらに、数日経てど変化は無かった。  彼は蒼白な顔で、大量の薬を胃に流し込んだ。精神も体調も、刻々と狂いかけていた。  週明けに、師の同僚が訪ねてきた。助手の身分だからと会議にも出席しない、籠りがちな少年を心配してのことだった。同僚の彼は今までも度々研究室を訪問していた。 「いっそ探しに行けばいいじゃないか。留守は私たちに任せたらいい」 「いいえ、きっと、大丈夫なんです」  そう彼は笑って、カレンダーにアナログな印を入れる。万が一無惨な事実を知れば、今度こそ自分が壊れる気がした。それに、約束がある。以前の通り、先生を出迎えてあげたい。思い詰め、ペンを握る少年の手が小刻みに震える。 「だが、彼女はもう……」  躊躇いがちに切り出す男性に、少年は突如噛み付くように言い返した。 「そんなはず無いです、だって、先生がっ、絶対っ……!」 「……無線も繋がらないんだろう」 「っそんなの、何か理由が、きっと……!」  少年の目がみるみる真っ赤に染まり、涙が滲む。動悸が激しくなり、上手く息が出来ない。同僚は、少年が取り乱す姿を初めて見た。静かに息を呑み、宥めようと語りかける。 「……悪かった、落ち着きたまえ」 「……いえ」  少年はすぐに我に返り、胸元できつく握った手を下ろした。同僚の男性が、そっと彼の肩に手を置く。 「……私も、出来る限りのことはしてみるから」 「……ありがとうございます」  男性が退室したあと、虚ろな目をした少年は研究室の奥へと入っていった。滅多に開けない薬棚から、幾つかの薬包を掴んでグラスに放り込む。水道水を無造作に注いで1滴の薬品を加え、くるくると掻き混ぜた。  出来上がったのは、深い藍色の飲み薬。約束の日に眺めた師のワインとは、似ているようで全く違う。今日という日にこれを飲むことこそ意味があるのだ。  本当なら何処までも追いかけて行きたいと、少年はずっと考えていた。師がいないなら、時間など有り余っているのだから。しかし自分など師の視界にはもう入らないのだと、絶望に打ちひしがれる。だが履行されないからといって、約束を自分が破棄するわけにもいかなかった。それ故の選択なのだ。  少年はグラスを手に取り、師の姿を脳裏にはっきりと思い浮かべた。 「先生、またいつか……お会いしましょう」  ――そうひっそりと呟いて、彼はグラスの中身を飲み干したのだった。
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