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3
「好きだから。初めて逢ったときから、ずっと好きだから、どうしても僕だけを構ってほしかったから、つい……」
俺はすべてを忘れて逃げ出したくなった。
◇
上履き事件は簡単に収束しなかった。
学校指定の上履きなんて簡単に手に入ると思っていたのに事件の日から一週間ほど経っても和美は俺の兄貴の上履きを履き続け、挙句精液まみれになってしまった。
「本当にごめん。僕が早く返さなかったから……」
まったくそのとおりだ。しかし俺は和美を責めることができなかった。あくまで和美は被害者だ。
だから俺はこのとき深く追求することはせず、早く新しい上履きが届くのを待つか、もしくは――こちらは冗談まじりで――白濁に汚された自分の上履きをクリーニングにでも出して履いたらどうだと言った。
「酷いこと言うなあ……」
「嫌なら早く対処しろよ。お前が動かないなら、俺が生徒指導の先生にでも告げ口してしまうぞ」
「それはだめだ! ふたりだけの秘密だと決めただろ!」
「わかった。わかったからそうカッカするなよ」
やたらと和美は〝ふたりだけの秘密〟にこだわった。
推薦枠など狙わなくとも、和美は実力だけで一般入試を突破できるほどの学力がある。何か特別な理由でもあるのだろうか。
「とにかく、お兄さんの上履きは、その、君が捨ててもいいって言うなら処分するけど、僕としては綺麗にして返したい。せめてもの誠意になればと。どうかな?」
件の上履きの持ち主であった俺の兄はとうの昔に上履きの存在など忘れてしまっているだろう。
正直和美が処分してくれるのならば楽でありがたい。
しかし彼の意思も尊重したい。
「お前がそこまでいうなら返してもらいたい。クリーニング代は俺が出すから」
「お金のことは心配しないで。元はといえば悪いのはこの僕だ」
「悪くない。こんなことをしでかしたやつが悪いんだ。それより、お前自身は大丈夫なのかよ。そろそろ一週間経つが、他に何か被害は?」
「今のところ上履きだけ。だけど、なんというか、アレが上履きだけじゃなくて靴箱にもこびりついていた。無我夢中で拭き取ったけど、靴箱の場所は変えようがないもんね……」
「なあ和美、数日休んだらどうだ?」
この数日で和美の目の下にはくまができ、疲労が溜まっているのが簡単に見て取れる。夜も眠れていないのかもしれない。
微細な変化だが、長い付き合いの俺にはすぐにわかった。そしてこの提案を彼が受け入れないことも。
「休む? 冗談じゃない。これくらいのことで休んでなんかいられない。生徒会の仕事だってあるし」
「今は大きなイベントごともないし、面倒な予算関係はとうに終わっているだろう? 朝礼の挨拶くらい副会長の俺にだってできる。むしろ少しくらい俺に仕事を分けてくれよ」
「そういう問題じゃない……そういう問題じゃない……」
「お前が頑なな態度を崩さないなら、俺がお前の靴箱を見張ってやろうか?」
「そういう問題じゃないって言ってるだろう!」
「お前が譲らないなら、俺も譲らない。ふたつにひとつだ。しばらく休んで心身共に回復させるか、これまでのすべてを教員に報告するか」
「……陸、お前はずるいやつだ。僕がどれだけ苦しんでいるか、君にわかるのか?」
「わかんねえよ。お前はむかつくほどいじっぱりで周りの目を気にして一番そばにいる俺の助言すら聞こうとしない。少しは自分を顧みろ。自分を労ってやれ。自分を癒せるのは自分だけだ」
「僕はそれほど阿呆に見えるのかい?」
「そこまで言ってねえだろうが!」
「もういいよ。好きにしなよ。でも僕はこれからも自分の身に何が起ころうとも自分で解決する。陸、君に頼るのもやめる」
「じゃあもしも、もしも次にお前に何かあったら俺はお前の意思を無視してそれなりの対処をするからな。お前が何と言おうとも」
俺は苛立ちまじりに生徒会室の引き戸を閉めた。
そのまま自分の教室に向かうべく足を進める。
和美はおかしい。限界が近いのかもしれない。
俺も俺でムキになってケンカ腰になってしまったことは謝るべきだと思う。
だが今日の和美の言動はちぐはぐで一貫性がない。
あれだけこだわっていた〝ふたりだけの秘密〟とやらも簡単に撤回された。
「あ、上履き……」
俺はふと、あいつは今日一日靴下で過ごすのだろうかと気になった。教員に事情を話せばスリッパなどの代用品を貸してもらえるのかもしれない。
あくまで事情を話せば、だが。
この件にはこれ以上深入りしないほうがいい。
わかっていても心のどこかに和美の姿がある。現にこの目で見たのだ。それも二回も。
あの程度のケンカで見捨てるほど浅い関係じゃないし、放っておけるほど非情な人間でもない。
教室に戻り自分の席に着くと、朝のホームルームまで五分ほどあった。俺はスマートフォンを片手に様々な通販サイトに目を通す。
やりすぎだ、限度を超えている、という自分自身の心の声に耳を閉ざしながら。
◇
まるでスパイにでもなったようだ。
和美と仲違いした日の翌日には、目当ての品が手元に届いた。それはボールペンを模した隠しカメラだ。
俺は毎朝登校時間の一時間前にカメラを和美の靴箱の奥にセットして、いつ現れるのかわからない犯人探しを始めた。
登校前に絞ったのは、和美の上履きにかけられた精液が乾き切っていなかった点から判断した。
購入したカメラは持続時間がフル充電でも一時間しかもたない。その代わりに録画した映像をスマートフォンで確認できるメリットがあった。
俺が盗撮という名のスパイ活動を始めた翌日。和美は新品の上履きを手に入れた。
俺の兄貴の上履きの行方はうやむやになったままだ。彼は宣言通り一日も休むことなく登校を続けた。
俺と和美との溝は深まったままだ。生徒会会議でも必要最低限の会話しかなく、彼は俺という存在を近づかせようとしなかった。
いつもと違う俺たちの関係に、同じ生徒会のメンバーはいぶかしんだが、彼らにあらぬ誤解をされるうちに、ただのケンカだと釘を刺しておいた。
二日、三日と過ぎていくうちに、俺は和美が性的被害に遭ったことよりも、カメラに無駄遣いをしてしまった後悔に苛まれるようになっていた。
平穏であることに越したことはないが、高校生にとっては財布に厳しい出費だった。
せめて元は取ろうと、以降も俺は盗撮を続けた。
一週間が経った。
二週間が経った。
和美に変化なし。
一般生徒よりも少しばかり早く登校して、ローファーを脱ぎ、新品の上履きと入れ替える。
ボールペンの存在にまったく気づかないのは、彼が油断している証なのだろうか。
それとも気づいているが、盗撮者を刺激しないようにわざとそのままにしているのか。
盗撮を始めてから十八日目の朝。
俺の疑問は最悪の形で解消された。
その日、和美はいつもよりも三十分早く登校し、カメラの前に姿を現した。
靴箱の戸を開けると、和美は周囲を気にするような素振りを見せ、何やらガサゴソとビニール袋のようなものを取り出した。
靴箱の奥に仕こんだカメラが次に捉えたのは、いつも彼が履き替えるローファーではなく、精液がべったりとまとわりついたもうひと組の上履きだった。
◇
その日の朝、ホームルームが始まる前に和美は俺を生徒会室に呼び出した。
それから自作自演の上履きを見せつけ、やっぱり助けてほしいと目をうるませながら俺の手を取った。
俺よりも小さい手を振り払い、隠しカメラで盗撮した今朝の映像を無言で見せつけると、呆れたことに和美は自らの非を詫びるどころか、俺のことがずっと好きだと告白した。
「好きで好きでどうしようもなかったんだ。他に方法なんてなかった。僕に何かあれば必ず助けてくれるって信じていたから、だから僕は――」
「もういい。聞きたくない」
「どうして? 陸、どうして怒っているの? 僕にはわからない」
「T大合格すら簡単な脳みそで考えてみろよ」
「わからないから聞いているだろ!」
「小学生でもわかるように教えてやろうか? 和美、お前は俺に嘘を吐いた。自分に構って欲しくて、自分のやったことを誰かのせいにしようとした。どうして素直に俺に好きだと告白しなかったんだ? お前がこんなことをしなきゃ俺だって……」
「でもそれは陸も同じでしょ? わざわざこんな動画まで撮って、どうするつもりだったの」
「お前が他人の協力を拒むから実力行使に出ただけだ。俺だってこんな映像撮りたくなかった。和美、お前を誰よりも信じていたのに……」
そう。
俺は誰よりも和美を信じていた。
本気で助けになりたいと思った。
過去のいざこざすら忘れてもいいほど、今回和美の身に起こった事態が異常だったからである。
それなのに……。
「陸……っ」
和美が何と言おうが裏切られたような気分になった。
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