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4
「なあ陸、知ってるか? 会長の噂」
「噂?」
「なんでも男にストーカーされてるって噂」
「ああ、そのことか……」
放課後。生徒会室で書類の整理をしていた俺に声をかけてきたのは、同じ生徒会のメンバーである会計担当の水越だ。
俺に真相をバラされた日から三日が経つ。その間和美は高校を休んでいた。俺と和美しか知らない噂とやらを水越はどこから仕入れたのだろう。俺は知らないふりをして水越の話を聞いた。
体操服を盗まれた、明らかに後処理に使われたティッシュが机の中に入れられていた、毎日のようにかかってくる無言電話、そして上履きに精液がかけられていた。どれもこれも聞いた話ばかりだ。
「でもよ、どれも噂に過ぎないだろ? あまり事を大袈裟にするなよ」
「陸、お前は直に見ていないからそんな他人事みたいな顔ができるんだ。いいか。俺は今朝、見たんだよ。会長の靴箱の中身を。他人のアレなんか見るもんじゃねえぜ」
「おい、水越。見たってどういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。俺と会長、靴箱が隣なんだけどさ、俺、寝ぼけてて間違えて会長の靴箱開けちまったんだ。そしたら……ああ今思い出してもキモかったぜ、アレは」
俺は何を信じたらいいのかわからなくなった。
ストーカーは実在するのか?
和美の自作自演ではなく?
帰り際、俺は和美の靴箱をそっと開けた。
中には半乾きの粘液がまとわりついた和美の上履きが乱雑に収められていた。
『家に来てくれない?』
たった一言のメール。和美から届いたメールに返信したのは、次の日の朝だった。
『午後からなら』
生徒会の仕事も一日くらいならサボってもいいだろう。午後の授業も誰かにノートを借りれば追いつける自信がある。
俺は人生で初めて仮病を使い、学生服のまま和美の家へ向かった。
「来てくれてありがとう、陸。会いたかった」
四日ぶりに会った和美は憔悴しているように見えたが、不思議と頬が染まっており、目元が潤んでいた。これらはきっと病気のせいではない。
俺が予定通り和美の家を訪ねたことを、彼が喜んでいるのだ。
うがった考え方だろうか。
和美が俺に対して恋愛感情を抱いていると告白されたその日から。いや、告白されたくらいでは、ここまでの複雑な感情は抱かないだろう。
嫌悪感。
俺は和美に対してはっきりとした嫌悪感を抱いてしまっていた。
「僕の部屋、二階だけどいいかな?」
和美の家に上がったのは初めてではない。だが、今日ほど玄関に足を踏み入れたくないと思ったことはなかった。
「陸?」
「……ここじゃだめか?」
「どうして?」
「言葉にしないと伝わらないのか?」
「僕が……陸のこと好きって言ったのが、そんなに嫌だったの?」
「わかってるなら――」
「陸の言う通りだよ。言葉にしないと伝わらないと思ったから、僕は告白したんだ」
「……本気なのか?」
「本気だよ」
和美の手が俺の手に重なる。そのまま軽い力で引き寄せられ、俺は和美の家の敷居をまたいだ。俺は和美よりも上背も体格も勝っている。しかし不思議と彼の手を振り払えずにいた。
二階への階段を上がりながら、和美は俺に云った。
「中学生の時の話、僕は忘れたわけじゃない」
あの事件か――。俺の脳内は三年前、中学三年の夏の日にさかのぼる。
夏祭りの日。夜空を彩る花火。汗ばんだ手に伝う、かすかな震え。
「あの夜の告白も本気だったんだよ」
「……告白、だというのか?」
「君はそう受け取らなかったの?」
和美が振り返って俺を見る。俺は彼を直視できなかった。
和美の部屋は数日引きこもっていたかのような、換気がされていないような、言語化できないような臭いがした。
清廉な印象の和美からは縁遠い、不潔な空間に対しての嫌悪感が、俺の足を踏みとどまらせた。
「入って」
和美が俺の手をぐっと引く。
「……何もしないから」
「早く用件を済ませてくれ」
「用件……」
和美は俺を彼のベッドに座らせた。
和美の部屋に椅子や敷物が無いためだろうか。そう思いたい。俺は和美の言葉を信じたかった。少なくとも数日前までは。
「……あの」
「先にひとつ、俺からいいか?」
「え?」
「お前が休んだ日以降……お前の上履きが精液で汚されていた」
「……え?」
「水越が見た。俺も確認した。お前からメールが来た日だ。確認させてくれ、あの日もお前の自作自演なのか」
「……自作自演じゃあ」
「自作自演じゃなければ何だって言うんだ」
「だから好きだって――」
「お前は今の俺の話を聞いてどう感じた? 自分の知らないところで自分の持ち物にぶっかけられて、お前はどう感じたんだ? 心底気持ち悪いって思っただろう? それが俺の気持ちだ」
「……気持ち悪かったの?」
和美が俺の前に崩れ落ちる。だが、彼の表情は絶望しているわけではなかった。どちらかというと困惑に近かった。
和美はおそるおそる俺の手を両手で取り、俺を見上げた。
「陸は僕がしたこと、気持ち悪いって思ったの?」
「お前、どこまで自覚がないんだ?」
「自覚……?」
「自分のしたことを異常だと思わないのか?」
――否定してくれ。
俺は心から祈った。ここで否定してくれなければ、俺たちはもう元の関係に戻れない。
ただでさえ、上辺だけの関係だと俺は思っていた。
その上っ面すら、和美が否定してくれなければはがれてしまいそうだ。
「……僕は君から愛してほしかったんだ」
「俺から?」
「僕が酷い目に遭えば、陸が助けてくれると思ったんだ」
「俺が動かなかったらどうするつもりだったんだ?」
「でも陸は僕を助けてくれた」
和美が俺の手を強く握る。
和美の想いが彼の手のひらを通して熱意となって俺に染みこんでいく。
「陸は僕を助けてくれた」
和美の声が熱を帯びていくたびに俺の心は冷めていった。
「やっぱり陸は僕のことを守ってくれる」
「……どうしてそういう思考になるんだ?」
「陸は僕のこと好きじゃないの」
「好きとか嫌いとかの問題じゃないだろう」
「僕のこと愛していないの?」
「……愛、だと?」
「僕は寂しくてたまらなかったんだ。どうして陸が僕から離れていくのかがわからなかった。せっかく同じ生徒会に入れて、同じ時を過ごせて……。でも、高校を卒業したら、もう会ってくれないと考えるだけで、居ても立っても居られなかった。だから――」
「だから、お前は自作自演までして俺を引き留めようとしたのか?」
「……そうだよ」
「和美、お前は本当に――」
――どうしようもない馬鹿だ。
俺は自分より低い位置にある和美の頭に手を伸ばし――やめた。
なぜだろう。
勉強はできるくせに人間としてどこか逸脱している和美の気持ちを汲んであげたい。
だが、俺の中の理性が和美を拒んだのだ。
「和美、俺はお前を受け入れられない。お前の気持ちを受け入れられない」
「……本当に嫌だったんだね」
「そうだ」
「陸、僕は……」
「もういいか。俺は帰る」
「え」
「帰るって言ったんだ。これ以上お前に話すことはないし、俺たちの関係を壊したくない」
「僕たちの関係を壊したくないなら、もっと話し合ってくれてもいいじゃん!」
「和美、そういう意味じゃなくて」
「壊したくないって思ったんでしょ? だったら陸の本音を聞かせてよ!」
「嫌いになりたくないんだっ!」
――言ってしまった。
「……嫌いになりたくない?」
――俺は、俺は……。
「陸?」
「…………和美」
俺は、和美に何を伝えたいのだ。あれこれ逡巡したが、答えは出ず、彼の名を呼ぶにとどまった。
次にかける言葉が見つからない。
うつむいてしまった俺の視界が陰る。
俺の頬に両手が添えられる。
彼の手は震えていた。
「ごめん……っ」
視線を上げると雫がしたたり落ちる。
「陸、僕を許さなくていいから……だから……っ」
唇と唇が重なる。和美の唇は女のように柔らかかった。
「一度だけでいい……僕を抱いて」
俺はもう何も考えられず、全身の力を抜いた。
了
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