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かつて、親が子の婚姻を取り決めるのが当たり前だった時代があった。
親の持ってきた縁談では、自分の好きな人とは結婚できない。だからふたりで手を取り合って逃げ出したけれど、逃げ切れなくなってしまい、ふたりはとうとう海辺に出た。
その日は荒波。落ちたらまず間違いなく助からない。
「ああ、これまでのようですね」
「……連れ戻されて、離ればなれになるくらいならば、どうかこの手を取って、崖へと落ちてくれませんか?」
「……わかりました。ただひとつだけ約束してください」
彼は私をひしと抱き寄せて、囁いた。
「どんな姿になっていても、必ずあなたを見つけますから。どうか来世では幸せになりましょう」
その言葉に私は大きく頷いて、彼にしがみついた。
互いにしがみついて、互いにおもりになり、海へと沈んでいった。
来世は必ず一緒になる。そう、約束したのに。
そう、たしかに約束したはずなのに。
****
「……いつまで経っても来ないなあ。おかしい」
前世を思い出したのは、私が試験に無事合格し、今の職場で働きはじめてからだった。
最初に思ったのは「ここだと相手に探してもらえなくない?」だったけれど、同時に「いやいや、ここだったらむしろ見つけやすいかも!」と思い直した。
私の職場は、大企業内に存在している保育ルームだ。ここで働いている方々が、お子さんを預けて仕事へと向かっている。
もし前世での心中相手が大企業で働いていたら、そりゃ見つけてもらえるかもしれないけれど。保育ルームに来たら既に既婚者なんだから、不倫になっちゃうよなあ。
ここで働いている保育士さんの中には、どうも前世の相手はいなさそうだった。皆既婚者だし、そんな前世の相手を探している雰囲気ではなかった。
私も探しに行ったほうがいいんだろうか。でもなあ。
「ひろくんがおもちゃとったぁー!」
「とってない!」
預けられている子たちが喧嘩をはじめたのを仲裁し、「はいはい。じゃあこっちで遊んでみようか」と提案しながら、そっと溜息をつく。
保育士はハードな仕事で、軽い気持ちで「前世の恋人探しに行きます」なんて言える雰囲気ではない。
どうしたもんか。私がそう思っていたら。
「今日から新しい子が入ってきました」
「はあい」
転勤シーズンになったら、それに合わせて預けられる子が変わったりもする。私は室長に話を聞いてから、その子の迎えに行ったときだった。
「あ」
「あ」
目と目で通じ合ってしまった。
黒いまんまるな目。ふっくらとした頬。小柄ながらもしっかりとした体幹。髪型は親御さんがカットに失敗したのか、前髪がギザギザだった。
でも、これは間違いなく、前世の恋人であった。
…………いやいやいやいや。
私二十三歳。この子もらった資料によれば五歳。
シンプルに犯罪です。一回りどころじゃない。
私は速攻なかったことにしようとしたものの、その子は私の手をいきなり取ってきた。
「……ここにいたんだね。どおりできんじょのこうえんをさがしてもいないはずだった」
「ええ……」
「……きみはぼくをおいておとなになってしまったんだね」
切なそうにそう言う声に、罪悪感が降り積もり、コンプライアンスという看板が私を横殴りしてくる。
私のほうを見つめているのに「もう先生に慣れたのねえ」と親御さんはおっとりした声だった。親御さん、待って。私、あなたのお子さんに出会い頭に口説かれていますが。
周りからは、「ませた男の子が保育士さんにひと目惚れした」甘酸っぱい構図にしか見えていないけれど。
私はコンプライアンスの看板にひたすら殴られ続けている。
私はひとまず、「それじゃあ、向こうで遊ぼうか」と言って、手を引いて部屋へと入っていった。この子と来たら、一生懸命恋人繋ぎをしてこようとする。
やめえや、前世に恋人繋ぎなんてものなかったでしょうが。
私は彼の手を解いて訴えた。
「前世の話、なかったことにしましょうね」
「……どうしてそんなことを言うんだい?」
「……あのね、私は二十三。あなたは五。年の差十八。わかる?」
「せめてぎゃくだったらよかったね」
「よくない。ちっともよくない。あなたが二十歳の頃、私はアラフォー。全然釣り合わないから。だからね、もうやめましょう?」
「どうしておとなになるまでまたないとだめなの?」
「コ、コンプライアンス!」
私が悲鳴を上げても、彼は聞く耳を持ちやしない。
彼と来たら、私がシュシュでまとめていた髪を一房取ると、それに唇をくっつけてくるのだ。前世でもしてないでしょうが、そんなこと。いったいどこで覚えてきた、そんなこと。
私が必死に訴える。
「やめましょう。私、犯罪は犯したくない」
「……こんどこそ、きみをしあわせにしたのに、それがきみをくるしめるんだね」
「語彙! 本当にどこからその語彙を身につけたの!?」
「でもあきらめられないんだ」
彼は私を切なそうに見た。
ふっくらした頬に、黒くて丸い瞳。その可愛さに切なさもプラスされたら、もう無敵だ。でも。
私は必死で抵抗する。
「駄目だから! あなたはよくても、私が無理だから!」
どうにか必死に懇願していた。
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