16人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
「保険適用で受けられるんだって、注射」
「ウソだろ、なんだその怪しい話」
「バイトの先輩が言ってるからウソじゃないと思う」
「ああ、そのゲイの先輩?」
「そうそう」
ホルモン注射は結構高い。二週間に一回くらいの頻度だが、一回二千円から三千円くらいかかる。俺たちは常に、同じような悩みをもつ仲間同士で情報を共有しているものだが、保険適用内で受けられる医療機関の話はあまり聞かない。
「明日行ってみようと思うんだけど、すずはどうする?」
「俺、明日も夜勤だもん。やめとくわ」
「じゃあ僕だけ様子見てくるね」
「ああ、怪しかったらやめなよ」
「分かってる」
そんな会話を嵐としたのを覚えている。いま思えば、このときにもっと強く止めていれば、こんなことにはならなかったのだろう。俺のせいだ。嵐がこんなにも傷つき、悲しみの中にいるのは、全部俺のせいだ。
翌朝、俺が夜勤から帰ってくると、嵐が玄関でうつぶせになって倒れていた。俺は慌てて嵐を抱きかかえ、容体を確認する。瞳孔が開き、口から泡をふいている。靴を履いたまま家のなかに入り、ひとまずはソファーに寝かせる。口のまわりをタオルで拭いてやり、ペットボトルの水を飲ませる。
「……ああ、すず」
「嵐、何があった? どうしたんだよ」
「もう僕、駄目だ」
「嵐?」
「死にたいな」
嘘だったのだ。ホルモン注射なんてなかった。そいつはゲイですらなかった。嵐が連れ込まれのは、その先輩の実家でもある小さな診療所。どうやら医者の息子らしく、うまく手続きをすれば保険を適応できる方法があるとか……そんな甘い話だったらしい。そのまま騙された嵐は、やすやすとそいつの実家にあがりこんだ。実家は留守だった。診療所も休診日だった。嵐は、そいつに無理やり部屋に連れ込まれた。おそらく、変な薬も飲まされた。
そして、そのまま……押し倒された。
最初のコメントを投稿しよう!