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第1話
「ちょ、ちょっと……?」
私は両手を突き出してけん制するが、猿渡(さわたり)さんは止まらない。
私はズルズルと後ずさりして、ついに壁まで追い込まれてしまった。
なに?
これ、どういう状況なの?
なんで、こんなことになってるワケ?
***:***:***:***
四月、私―犬養佳乃(いぬかいよしの)は期待に胸を膨らませて入社式を迎えた。
申し訳ないが、仕事に夢や希望を持っていたわけではない。
かわいい新入社員として、きれいなお姉さま方にチヤホヤされることを期待しているのだ。
同期で入社したのは合計八名。その中に猿渡雫(さわたりしずく)がいた。
猿渡さんをひと目見て、「コイツはキケンだ」と直感した。
その直感の理由はうまく説明できない。
何か嫌なことをされたわけでもないのに、なんとなく好きになれないと感じる人はいないだろうか?
私にとって、猿渡さんがそれなのだ。
なんとなく好きになれないというよりは、なんとなく敵だと感じる、そんな人物だった。
私の、会社ハーレム化計画を阻止するとしたら、猿渡さんだろうと感じ取ったのだ。
私と猿渡さんは正反対だ。
小柄な私に、背の高い猿渡さん。
髪を伸ばしてフェミニンな服装を着る私に、ショートヘアーでボーイッシュな猿渡さん。
苦戦はするかもしれないが、ハーレムの主になるのは私だという自信はあった。
なぜならば、王子様系女子がモテるのは高校生までだからだ!
かくいう私も、高校生まではボーイッシュなタイプだった。
陸上部で短距離の選手をしていて、短い髪と日に焼けた肌がキュートなスポーツ女子だったのだ。
小柄な私は、純粋な王子様キャラではなかったが、弟系のかわいい王子様キャラとして、女子たちにキャーキャー言われたものだ。
だが、それは大学に入って一転した。
研究を重ねた結果、大人女子にモテるのは、ボーイッシュよりもフェムだという結果に至ったのだ。
そこから、私はフェム系にシフトチェンジした。
もちろん、ボーイッシュにも一定の支持層がある。だが、小柄な体形を生かしたフェムの私ならば、猿渡さんに負けるはずがないと思っていた。
ところが、ふたを開けて見ると、社内のお姉さま方の人気を集めたのは猿渡さんの方だった。
私は、読み間違えたのだ。
猿渡さんはボーイッシュ系ではなく犬系だったのだ。
相手の目をじっと見て話を聞く姿、指示の内容を受けてそれを正確にこなす仕事ぶり、たまに失敗しても愛嬌を振りまき、褒められたことに対して素直に喜ぶ。それらは、かしこく人懐っこい大型犬、ゴールデンレトリバーのようだった。
私が座るはずだったお姉さまハーレムのイスは、猿渡さんのものになってしまった。
その上、猿渡さんは私のことを「子ザルちゃん」と呼びはじめたのだ。
馬鹿にするにも程がある。
いくら小柄とはいえ、一端の乙女に向かって子ザルはないだろう。
「子ザルちゃん、ねえ、子ザルちゃん」
そう、こんな風に私を呼ぶのだ。
「子ザルちゃん、鹿頭(かとう)係長が呼んでる」
私ははっとして顔をあげる。
隣の席の猿渡さんが、鹿頭係長の席に視線をスッと送る。私もつられてそちらを見ると、かなりご立腹の様子だった。
「あんまり鹿頭係長を怒らせちゃダメだよー」
猿渡さんはニヤニヤと笑いながら小声で言った。
ムカつく。
「子ザルって呼ぶな」
私は低い声で言いながら猿渡さんの後ろを通って鹿頭係長の席まで行った。
鹿頭係長は、ふくよかな体つきの四十代女性だ。
浮かび始めているシワは、家庭では三人の子どもを育て、会社では多くの後輩を育ててきた、彼女の人生そのものを表しているようで愛おしさを感じさせる。
社内には『おデブの局(つぼね)』と口さがないあだ名で呼ぶ輩もいる。だが、私は、鹿頭係長が好きだ。恋愛的な意味ではない。
例えるなら、母に対する愛情に近いかもしれない。
入社間もないひな鳥の私たちが独り立ちできるよう、ときに厳しく、ときにやさしくサポートをする姿は、まさに母ではないか。
私は、鹿頭係長に「よくできたね」と頭を撫でられたい。褒められたいのだ。
しかし、鹿頭係長が私にやさしい顔を見せてくれたのは最初の一カ月だけだった。
間もなく二カ月を過ぎようとしている今は、こめかみに青筋を立てる比率が上がっている。
理由は簡単。
私が全くパソコンを使えないため、同期の新入社員と比べても、各段に仕事ができないからだ。
だって、パソコンなんて使う機会なかったからしょうがないじゃない。
学生時代はスマホがあれば問題なかったから、敢えてパソコンを覚えようなんて思わなかった。
入社してから、新入社員には簡単な仕事が任され、少しずつ仕事の難易度が上げられていく。
ところが、私においては、日を追うごとに難易度が下がるというスペシャル仕様になっていた。
「これ、計算が間違っているからやり直し。明日提出でいいから、ゆっくり、しっかりやりなさい」
鹿頭係長は、昨日私が提出した書類を私に付き返した。
怒鳴ったり唾を吐いたりしないのは、鹿頭係長の人間力のなせる業なのかもしれない。
私は、書類を受け取って席に戻る。
どこで間違えたんだろう。私が昨日三時間かけて作り上げた力作に眺めた。
正直、これくらいの書類ならパソコンよりも手書きの方がずっと早く作れると思う。それなのに、わざわざパソコンを使う意味がわからない。
私は、引き出しから計算機を取り出した。
すると「フッ」と、隣の席で猿渡さんが吹き出した。
「猿渡さん、何か?」
「いや、計算機を何に使うのかなと思って」
「計算機は計算をするために使うに決まっているでしょう」
「でも、子ザルちゃん、エクセルで作ったんだよね?」
「子ザルって言うな」
「プッ、クククッ」
猿渡さんは、さらに堪えられないといった風に右手で口もとを隠して肩を震わせる。
「パソコン、教えてあげようか?」
パソコンは、誰かにちゃんと教えてもらった方がいいかもしれない。だが、猿渡さんに教えてもらうのだけはごめんだ。
「結構です」
「ふーん、やさしく教えてあげるのになあ」
猿渡さんは、意味深な笑みを浮かべながら言う。
そして、鞄の中からポケットティッシュを取り出すと、ポンと私のデスクに放り投げた。
「それじゃあ、コレあげる」
そのポケットティッシュには、パソコン教室の案内が入っていた。
「少しはパソコンを覚えないと、鹿頭係長に見放されるよ」
「ウグ」
敵に塩を送られるようではあるが、これも鹿頭係長のためだと飲み込んでおこう。
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