.優しさ

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 授業中、穂香は自分のふたつ前の机を見つめていた。  もう誰も座ることのないその机は、油性マジックの落書きで埋め尽くされていた。だれがやったのか、しおれた花の活けてある花瓶まで飾られている。  そのことに、誰も何も触れようとはしない。話題に出そうともしない。誰もが見て見ぬふりをして、誰かがそれを見て笑っている。いない生徒がいじめられているほうが安心できるのか、教師ですらそれに一瞥をくれただけで何も言ってはこない。  智也のいない場所でも、その優しさは消耗されていく。もうなくなった幻想の優しさが、肥溜めの教室で唯一輝いて見える。  きれいに掃除された教室。表面を繕った笑顔。美しく見えるだけの教室の中で穂香には、確かに汚された智也の存在だけが何よりも美しく見えた。  ヴー、ヴー、と。  静寂を破るように振動が響く。教室の視線が自分のもとで束ねられて、穂香はもうずっと遠くに感じられるあの日のことを思い出した。だが着信画面に映った名前を見て、穂香の意識は急激に現在へと引き戻される。  何の躊躇もなく立ち上がり、椅子と机が床をこする。「おい……」と怪訝な目を向けた教師を視線で射抜き、穂香は教室から飛び出した。  上履きのまま校舎を出て、ただひたすらに足を動かす。  電話は、智也の主治医からだった。
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