1.日常に潜む病

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   ◇ 「対応が遅れて申し訳ない。しかし、災難だったね。朝からアレに絡まれるなんて」  駅員はそう言い、汚物へ向けるような視線で去ってゆく救急車を見やる。そんな駅員の態度に、智也はひりひりと痛む頬をきゅっと締めた。 「いえ、本当につらいのは、無優病に罹った本人だと思いますから」  目をそらしながらそう言う智也に、駅員は「君は優しい子だねぇ」と微笑みかける。けれど、その微笑みから見えるものが決して慈しみだけではないことを、智也も穂香も十分すぎるほどにわかっていた。  無優病。それは、優しさが欠如する病。  罹ったものは先ほどの男のように、他人への優しさ、思いやりといったものが無くなっていく。その行きつく先は、思考を暴力に支配された社会不適合者であり、やがて隔離され、誰の目にも触れぬままその一生を終える。  駅構内でのもめごとなんて日常茶飯事だ。今朝の出来事にしても、散乱したごみを片付けることや、金曜夜の吐しゃ物をきれいさっぱり洗い流すことと、作業としては変わらない。けれど、その掃除する相手が生きて感情を持っているなら、その心労も一入(ひとしお)だろう。駅員が、先ほどの無優病患者を搬送する救急車に、それらに向けるものと同じ視線を送っていたところで、そこには何の不思議もない。無優病患者というのは、一般的にそういった視線を向けられてしまう存在だった。  当たり前のことだ。  優しさが無いとは、単純に冷たい人間だというだけの話ではない。優しさを起因とするあらゆる感情、行動が文字通り無くなるのだ。それはある種、怒りの暴走とすら言える。それがこの社会でどれだけ忌避されるのかは想像に難くない。 「まったく、被害にあったのが君みたいな子で助かったよ」  そして、そんな無優病患者に人並みの思いやりを向けるものが、どう思われるのかも。 「それは、どういう意味ですか」  ぼそりと呟かれた駅員の言葉に厳しい目を向ける穂香。 「被害者が智也でよかったと?」 「いや……別にそういう意味じゃあ」  自分の半分も生きていない少女に睨まれ、駅員は困ったように弁明しようとするが、そこへも智也は助け船を出した。 「穂香。被害者が女性やお年寄りじゃなくてよかっただろ。それだけのことだよ」 「そりゃ、そうかもしれないけど……」 「そんなことより、これから警察の人が話聞きに来るんだろ? さっさと済ませて学校行かないと」  そう言うと、智也は「こっちでいいんですよね?」と駅員に確認をして、自ら駅内の事務室へと向かって行く。智也と、その後ろを追う穂香を見て――駅員はただ、思ったことを呟いた。 「ホント、優しい子だな……」  優しいだけの人間なんていない。  それは、無優病が世界に知らしめたひとつの真実だった。
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