断絶

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断絶

この世界が一方向に進む線の上に成り立っている、というのはほとんどの人間が持つ認識だと思う。穏やかで緩やかな、しかし決して戻ることのできない連続的な「時間」という流れに、人は生きる。そして人はそうした時の流れを「過去」、「現在」、「未来」のように一部分を切り取ってまるでバラバラの点が一つの線をなすかのように言語などで表すけれども、本当はそうした言葉などが無意味だというのを知っていて、そこには始まりと終わり以外の区切りはないように思われる。 だが本当にそうなのだろうか。一昔前の過ちを犯した僕と、今日の僕は、本当に同一人物なのだろうか。昔授業で習った「テセウスの船」のように、僕は僕である、と勝手に思い込んでいるだけではないのだろうか?僕の身体を構成する細胞は数ヶ月で全て新しくなる、この事実だけを鑑みても、僕はその数ヶ月前と同一の僕ではないように思われる。僕は僕ではないのだろうか? しかし一般的な感覚に照らし合わせてみれば、「そんなわけはない」のだ。昔の自分と今の自分は、「成長している」という点では違うのかもしれない。しかし昔の自分と今の自分が連続していない、全く別の生き物である、などという話は哀れな科学者か哲学者がしそうな話ではないか。やはり僕は僕なのだ。過去の痛みも、悲しみも、そして贖罪も、全部全部僕のものであり、今の僕を過去の僕を繋いでいるものなのだ。やはり僕は僕なのだ。 ならばなぜ、僕は今この瞬間における大きな断絶を感じるのだろう。 「ごめんなさい、間違えました」 30秒ほどの着信音の後、一件のメッセージが携帯の画面の表示される。 喫茶店で心地よく哲学書を読みながら、来るべき大学院の入学までの時間をつぶしていた僕の知的作業を中断させるのには十分すぎる一言。いや、客観的にみればその言葉にはなんの力もないのかもしれない。自分も人によく間違えて電話をかけてしまった時に謝るなんてことはザラにあるのだから。 問題は、「誰」がそのメッセージを打ったのか、なのだ。 思わず本を閉じ、携帯をしばらく眺める。この胸を締め付けられる感覚はどれくらいぶりだっただろう。それは決していいものではなかった。不安、という二文字で上手に形容されるようなそれは、長い間僕を苦しめ続けてきた。そしてそれがついぞ解決されたことはなかったのだが。 携帯を手に取り、チャットを開く。僕らはもうお互いをフォローなんてしていないから、上には「お互いをフォローしていません」と、まるで不審者かのように扱う文面が丁寧にアプリに表示されている。写真も知らない写真だ。それでもそこに書かれている名前は、僕が最後に連絡を取った時に彼女が使用しているものだった。 これがただの元カノであったならどれだけよかっただろう。浮気をされこっぴどく捨てられたのならばどれだけよかったであろう。はたまたただの自然消滅であったならどれだけよかっただろう。僕が被害者であるならば、この話は都合のいい男として振り回される哀れな人間の話で終わったはずなのだ。そして僕はまた昔みたいに振り回されて、あの「何を考えているのかわからない」という地球よりも大きな不安に苛まれて、その人の気持ちを推察しながら、憂いの割合の方が圧倒的な一喜一憂をしながら日々を過ごしていただろう。 だが僕は加害者として二人の関係に終止符を打った。端的に言えば僕は浮気をした。それだけならまだしも、僕はあろうことか本人もいる旧友たちの前でそれをぶちまけたのだ。なぜそんな愚かなことをしたのだろう、と人は問うかもしれない。答えは僕にもわからない。酒を飲んでいたわけでもないし、深夜だったわけでもない。でも僕が覚えているのは、みんなの前で僕らの関係について彼女が語ろうとした時、意地悪く微笑んでいたことだけだった。それが僕には耐えられなかったのだろう。それはもはや加害者の言い訳で、だからこそ僕に弁解する余地などないのだが、しかし恥も外聞も捨てて外道に落ちて言い訳をするならば、僕は彼女が僕を雑に扱うことに耐えかねていたのかもしれない。彼女にとって僕との恋愛や初体験などは全ては他人に共有するコンテンツに過ぎなくて、少し寂しくなって連絡すればすぐ返してくれるような、そういう都合のいい存在だったのだろうと今になって思う。 そして僕はそうした彼女の扱いに確かに苦しんだ。それは他人に説明して分かってもらえることではないだろう。僕は日記にしたためることもしなかったし、ましてや友人たちに言うこともなかった。高校時代に付き合っていた時は普通の恋愛だと思っていたのに、「新しい環境にいくから」という一言で卒業と同時に別れを切り出されてもなお、そこから大学に入ってもなおつかず離れずの関係を続けたり、成人式でキスをしたかと思えば別れ際に「さようなら情けない人」と言われたり、嬉々として僕の前で自分がモテる話をするのに僕の新しい恋を常に否定的な言葉で止めようとしたりしたり、そんなことばかりが思い出として残っているのだから、よほど苦しい思い出だったのだろう、ともう。 だから例え手段を間違え、そして幾許かの友人をなくしても、僕はああやって僕の過ちを自ら白状するのが最良だと考えたのだろう。そうしてそれは見事に効いた、と思う。彼女は見たこともないくらい号泣し、僕はその場にいた人々に、公開処刑を受ける前の死刑囚なみの怒号を浴びせられた。それでも僕はこれこそが今までの扱いに対する復讐だと信じ、ここで徹底的に悪役に徹して僕らの関係を完璧に断つことを望んだ。 そして晴れて望み通り、僕らは他人を超えた大きな壁によって隔たれることとなったのだ。 しかし悪人になることに慣れていない人間にとって、それは大きな過ちだったのだろう。僕はその後夢で何度か彼女を見かけた。そしてなぜかいつも彼女は遠いところから僕に向かって何も言わずに微笑む。もし夢の中で自分の過ちを非難されたら、どれほど楽だったのだろうと考える。それくらいにその笑みは僕をひどく苦しめた。それは何に対する笑みだったのだろう、と考える余裕もないくらい、僕はひどく困惑した。朝起きて、そうして夢に出てきたことを日常の忙しさで忘れるまでのあの時間が、憂鬱で仕方がなかった。 罪を犯した時、責められることが救いだと気づいたのはこの時だった。 でもその夢も時が経つごとになくなっていった。あの時はそれ以外でも辛かったと思うから、僕の人生は非常に絶望的であった。そういえばパンク・ロックにハマったのもこの時期だったと思う。でも人間というのは生きていれば色々とあるもので、この過ちも、気づけば忘れ去られた過去の一つになっていた。それは中学時代に告白して振られた時や黒歴史のように そして僕らの「断絶」は、その後変わることなく二年ほど続いていた。 それなのに、である。 なぜよりにもよって今なのだろうか。昔から何を考えているのかは分からなかったけれど、今ほどそれを思ったこともなかった。 このメッセージがくるその時まで、僕はこの世界の幸福の中心は僕なのではないのかと考えていた。大学を無事卒業し、進路も決まり、新しい恋人とこれでもかというくらい仲睦まじく過ごし、友人たちと旅行や飲みに出かけ、忙しくも本当に充実した日々を過ごしていた。 罪を犯した人間が刑務所で更生し、充実した人生を送る権利が憲法で保障されているように、僕は自らの過ちを引きずって生き続けることはしなかった。多分私は方々から見れば幸せになる権利などないのだろうが、その権利は僕自身が所有しているのだからしょうがないのだ。そしてその所有者である以上、僕にはその権利を行使する自由がある。反省することと、それを引きずることはきっと違う。もし同じならば、日本は敗戦国から高度経済成長を遂げることはなかっただろう。国がそうなのだから、当然僕にも同じことが当てはまるはずである。 だからこそ僕はこのメッセージが、復讐か何かだと思った。アイコンに載っている今の彼女との幸せなツーショットをみて、僕の幸せを奪いにきたに違いないと。大半の人はそんな妄言を笑い飛ばすだろうが、僕としてみればそれほどの衝撃だったのだ。そうでなければなぜ長い電話などかけるのだろう。いや、例え間違えであったとしても、「他人よりも徹底的な他人」のプロフィールをなぜ覗くのだろう。僕のことなどとうに忘れて、彼女は彼女で自分のことを誰よりも分かってくれている素敵な恋人を社会人生活の中で見つけているのではないのか。はたまた恋人などいない、でも仕事で充実した人生を送っているのではないのか。彼女の近況を僕は知る由もないので想像することしかできないが、しかし僕は彼女の幸せを願いはしないが、不幸にもなってほしいとも思っていないのだ。だから僕は彼女が幸福な人生を僕の遠い場所で送っているに違いないと心の片隅で思っていたのだ。自分が幸せであるように、彼女もまたきっと幸せであると。 どれくらい時間が経っただろうか、僕は深呼吸をして、それから簡潔な返事を送る。 「了解です」 続くことのないであろう完璧な返事。無視をしなかったのは、せめてもの礼節である。僕らは他人よりも他人なのだ、既読無視は一つの意思表示になってしまう。だから僕ができることは、当たり障りのない言葉を綴ることであった。 これで僕と彼女はまた深い断絶によって袂を分つのだろう。僕は僕の幸福を、彼女は彼女の幸福を。今日のことをこれから友達に話して、僕は笑い話にして消化するだろう。一晩寝れば忘れる。そう思っていた矢先だった。 「元気でしたか?」 ああ、本当に懐かしい。 最初に出てきたのはそんな感想だった。 何を考えているのかわからない、本当に何を考えているのかわからない。たまらない憂鬱に、僕は思わず携帯を裏返す。その行為に何の意味があるのかはわからないけれど、それでも僕はそうせずにいられなかった。 どうして会話を続けようとする?どうして僕にそんなことが言える? それは僕の理解することのない、意識の外にある経験を超えたものへの「畏怖」に近い感情だった。僕がどれほど頭で考えたところで、それは分かりはしないのだ。 僕に連絡がしたいのだろうか?だがあの断絶を得てそれでも連絡したいのだろうか?いや、そもそもなぜ僕なのだろうか?断絶の少し前まで、僕は彼女の最も良き理解者だと自負していた。誰よりも彼女を知っていると。でも現実は非情で、彼女は新しい理解者をすでに作っていた。僕を振り回しながら、彼女は彼女自身の幸せを追求していたのだ。そして人伝聞いた話だと、断絶の後も仲睦まじく続いていたそうだったから、僕を頼って連絡をしてきたことだけは絶対にないの確かだった。 「元気です、そちらは?」 困惑する頭を必死に使って考えた文面を打ち込む。当たり障りのない会話以外に、僕は許されていない気がする。 「社会人大変だけど、何とかやっています」 何が目的なのかがわからない殺人鬼ほどホラー映画などでは恐れられるが、まさにそうした現象と同じなのだろう。血よりも幽霊よりも、人は「わからない」ことの方がよほど怖いらしい。 何が目的なのだろう。それともただ社会人として嫌な人間に対しても社交辞令を言わなければいけないからやっているだけなのだろうか。だとしたら素晴らしい社畜だと言わざるおえない。いや、きっとそうなのだろう。そうであってほしい。 一縷の望みを込めて、僕もまた社会人らしく返信する。 「お疲れ様です」 「ありがとう、ごめんね急に連絡して!」 そうして会話は終わるはずだった。そうして終わらせればよかったのだ。 だが僕は思い出したのだ。本当に伝えたかったことを。彼女が幸せであってもそうでもなくても、僕にはしなければいけないことがあった。 「いえ、こちらこそ、それとあの時は本当にごめんなさい」 言葉を濁して、僕は謝罪をする。神様など信じないけれど、この時ばかりは神を信じてしまいそうになった。彼女の意志に関係なく、この状況はチャンスなのだと。僕はここで過去を精算し、そうして真の幸福を手に入れることができる。心に一点の曇りもなく、僕はこの先に待っている幸福な世界を享受することができる。僕に認められた幸福の権利を、完全なものにするための機会。その可能性に気づいた時、僕は先ほどと打って変わって何故か嬉しさを覚えた。もう数年も経っているのだし、彼女は社会人としてきっと僕の想像の及ばない美しい人生を送っているに違いない。 だから僕は謝罪をしたという事実に酔っていた。これで全てが美しい平穏へと戻る。断絶はなくなり、僕らはただの他人となる。心配することも、後悔することもないのだと。そうして僕は今の大好きな彼女と仲良くやり、旧友たちと騒ぎ、大学院へ行って学問に打ち込むのだ。 だが大いなる罪が決して消えることがないように、その罰もまた消えることがないのだ。 「うん」 許すことでもなく、否定することでもなく、ただ僕の言葉に対しての、何の中身もない反応。そしてその最後の返信から数分が経ち、僕らの仲の修復不可能性は、このシンプルなひらがな二文字とその時間経過によって決定的となった。僕はこの言葉に返信することもできなければ、その後の続きを聞くこともできない。僕の待ち望んでいた幸福な世界はついにその顔を見せることはなかったのだ。 幸せになるのには、誰の権利もいらないという。だが本当にそうなのだろうか。個人がたった一人で幸福になることなどあり得るのだろうか?いや、結局のところシンプルな問いなのだ。 罪を犯した人間に、幸せになることは許されているのだろうか? 僕の場合、それは否であった。 「許さないよ」と言われた方が、どれほど楽であったか。そうすれば間違えて連絡してきたことと過去には繋がりがあったのだから。本当に間違え電話だったし、まだ僕を許していない。その方がどれほど良かったのだろう。 けれども僕受け取った返信は、徹底的な「否」である。進むことも止まることも許されない、それどころか僕はより深い「断絶」を味わうこととなったのだ。何故か。それは僕が彼女に対して行った過ちと、今回の彼女からの連絡に、一切の連続性がないからだ。簡単に言ってしまえば、彼女が「何を考えているのかがわからない」という事実が絶対的なものになってしまったのだ。 「わからない」ということこそが人間が最も恐るべき事態なのだ。 そして僕は、罪の代償としてその「わからない」という罰を永遠に受け続けることが決定した。 僕は、永久に幸福になる権利を奪い取られてしまったのだ。 時間的連続性も、僕らの関係性も、深い「断絶」によって未来永劫戻ることがなくなってしまったのだ。 大いなる不安に胸を締め付けられながら、僕は携帯を閉じるよりほかなかった。この先どんな幸福が僕を待ち受けていようと、必ずこの断絶が僕を許さないだろう。僕はその罰を背負って生き続けていくほかないのだ。 そうしてはたと気づくのだ。 彼女は彼女なりの復讐を果たしたのだと。 負けず嫌いで一度も僕に負けたことがなかった彼女が、意識的にせよ無意識にせよ僕に負けたままで終わるはずがなかったのだ。 断絶、それはどこまでも続く、僕らを他人よりも遠い関係たらしめる究極の「罰」。 僕はその日初めて、神を信じたくなった。
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