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深く夕陽が差し込む教室には、机に突っ伏している女子生徒がひとりいた。先ほど、大路冬夜から幼馴染とのとんでもないのろけ話と、その幼馴染にちょっかいを出すなという牽制をしっかりたっぷりと浴びせかけられた女子生徒だった。
大路が去った後、入れ違うようにして入ってきた一人のクラスメイトがその肩にそっと手を添える。
「大丈夫?」
「佐々木……」
少女は顔を上げた。その顔は混乱と涙と後悔で酷いことになっていて、もしここに他のクラスメイトたちがいたとしたら、彼女が持つ「学年一の美少女」の肩書きは跡形もなく消えていたことだろう。
「……で? どうだった? 人の忠告をことごとく無視した挙句、俺が委員会の仕事中に大路に直接物申しに行った感想は」
佐々木の顔は、明らかに面白がっている人間のそれだった。少女はまったく元気づける気が無い様子の級友を睨むとますます項垂れた。それを見た佐々木がやれやれとばかりにため息をつく。
「……めちゃくちゃ饒舌にキレられた……冬夜……大路くんがあんなに喋ってるの初めて見た……」
「大路は昔から星谷のことになるとめっちゃ喋るからね」
「あと途中で星谷宙と付き合ってんのかなって思ったら全然付き合ってなかった。意味わかんない。なにあれ怖い」
「嘘、あの二人まだくっついてなかったの」
驚愕する佐々木の顔を横目に、少女はまたしても表情を歪めて机に突っ伏した。佐々木はそれを案ずるでもなく、ただひょいと肩をすくめた。
「いい加減わかったでしょ。何度も言ってたように、あの二人の間に割って入ろうなんて天地がひっくり返っても無理なんだってこと」
言いながら、佐々木は何気ない仕草で窓から外を見下ろす。
もう帰宅するところなのだろう。そこには並んで歩く大路と星谷の姿があった。ここしばらく大路を苛立たせていた問題もついさっき片が付き、その表情は晴れやかだ。
佐々木には、失恋とはまた違う何かに打ちのめされているクラスメイトをなぐさめる気など端から無かった。
そもそもこうなったのは、佐々木が親切に止めてやっているのも聞かずに一人で暴走した故の自業自得だ。
そして大路に阻まれ未遂に終わりはしたものの、彼女が星谷に対して人として最低の手を使おうとしていたことも知っている。大路があのまま放置して何もしない気でいるのならば、佐々木自身がしかるべき大人に通報していたところだ。
結局、星谷宙専用の最強のセキュリティは問題なく作動し、その必要はなかったわけだけれど。
仕掛けるつもりだった彼女も、冷静になった今では反省しているようだ。
恋は人を盲目にするとはよくいったものだ。大路冬夜に恋した彼女もまた盲目となり普段の完璧な可愛らしい外側を取り繕うことが疎かになった。
だからといって、許されることではない。彼女の罪に対する罰は、これからしっかり与えられることだろう。
性悪、毒舌、虚言癖。可愛らしい見た目と中身が全く違うということは、彼女が星谷宙という一個人に向けて言っていた陰口と共に女子の間にはすっかり広まってしまっているのだから。
そこから他に広まるのなんて、ほんの一瞬だ。
そもそも大路が星谷以外と付き合っているという噂なんて、誰も信じていなかったというのに。よくまあ本人に突撃しに行こうなどと思えたものだ。
恋にまっとうな思考回路を潰された乙女の心理を推しはかることはこの世で一番困難だ、と佐々木は渋い顔をする。
――でもまあこの人、かなーり強かだし。どう転んだとしても自分でどうとでもするだろうな。
傷心のクラスメイトに対して妙に冷静な判断を下したこの佐々木という生徒は、大路と星谷のことを随分前から知っていた。
何の因果か、幼稚園から小中高とずっと同じところに通い、そしてその間ずっと彼ら二人と同じクラスに在籍するというありがたくない奇跡の中にあったせいだ。
佐々木自身が彼らと接点を持ったことはほとんどない。せいぜい提出物の回収などで事務的なやり取りを数回した程度だ。彼らに存在を認識されているかすら危うい。
どの時期であっても「すらりと背の高いクールな美形」と「ぼんやり可愛い不思議くん」が毎日毎日飽きもせず、まるで付き合いたての恋人同士のようにべたべたと引っ付きあっているという光景は、否が応でも目に入るものだった。
あんなことがあった今日とてそれは変わらない。机に向かって呻く級友の声を右から左へと聞き流しながら、佐々木の視線は仲睦まじく寄り添い歩く二人の姿を追っていた。
いつものことながら、何か考え事でもしているような、上の空な様子で歩く星谷の姿は離れたところから見ていても充分に危なっかしい。もっと周囲に気を配ってまっすぐ歩けと言いたくなる。それはすぐ隣を歩く大路にとっても同じなようで。
けれど、佐々木の考えとは違って彼は星谷を甘やかす。星谷がすれ違う男子にぶつかりそうになるのを、そっと肩を抱いて自分の方へと引き寄せてやる程度には。
幼馴染のその手に当たり前のように身を任せる星谷の安心しきった顔。確かにあれは庇護欲が刺激されるし、ちょっと可愛いかもしれないと佐々木も思う。
完全に幼馴染におちている大路はというと、好きな子のふにゃりとした微笑みに至近距離で当てられて、ものの見事にときめいた顔をしていた。あんなの「俺はこいつが心底好きです、惚れてます」と大声で言いふらしているようなものだ。
佐々木にとっては毎日のように見てきた光景だ。砂糖と蜂蜜とメイプルシロップを混ぜて煮詰めたみたいに甘ったるくて、いい加減胸やけがしそうだ。
入学したての頃はそれなりに話題にもなっていたが、今となってはあまりにも自然なあの二人のやりとりに関して誰も何も思わなくなっていた。それどころか、もはやこの学校の風景の一部になりつつあった。
――それでも、大路冬夜という男は見た目が良いからモテてしまうわけだけども。
机に向かって呻きながら貧乏揺すりで小刻みに揺れるクラスメイトのつむじを眺めながら、佐々木は内心で独り言つ。
大路が星谷に向ける重たくて巨大な気持ちに気が付かない女子が、というか、それを信じようとしない女子がたまにいるのだ。幾ら星谷が可愛かろうと男が男を好きになるわけが……なんて思い込みもあるのだろう。
そしてそういった中に「アタシなら絶対振り向かせられるもん!」みたいな自信家がいたりすると、今回みたいな誰も幸せにならない滑稽な悲劇になるわけだ。
そういう事態になる度に苦心しているのがこの佐々木なのである。
いい加減、他人事なのだから首を突っ込むのも馬鹿らしいとは思うのだけれど、知っている人間がほぼ確実に不幸になるとわかっていて放置するのは寝覚めが悪い。
結局、今回もまた聞き入れられることのない忠告をするだけして、やきもきさせられるだけさせられて、そして何もできずに終わってしまった。
別にいいけど、と佐々木は頬杖をついた。視線はまだ外を歩く二人を追っていた。なんとなく彼のことを目で追ってしまうのだ。そこで醜く唸る女子を直視するよりは、という気持ちもあった。
「……あんなにあからさまなのに、なんで認められないかね」
こうして誰かに見られていることも知らずに、人目も憚らずに親密な様子で歩く大路と星谷。あるいは、彼らにとってお互い以外の人間など存在しないに等しいものなのかもしれない。別にあの二人の世界に混ざりたいわけではない佐々木としてはどうでもいいことだ。
不意に、星谷が大路の指に自分の指をやわく引っかけ、彼の気をひいた。見事に引っかかって星谷の手を握ってしまったくせに、大路は大人びたふりをして甘えた仕草の仕返しに幼馴染の耳元に顔を寄せた。
何か言われたのだろうか。それともこめかみにキスでもされたのだろうか。望んだ通りに構われて、擽ったそうに首をすくめる星谷の顔といったら。
「うん……今ならブラックコーヒー、二リットルくらい飲めそう」
常に傍観者であった佐々木は知っている。
大路は幼馴染が鈍感すぎるせいで自分の想いは一方通行なのだと思っている。
しかし、星谷が彼を見上げるその目に、確かな恋情が浮かんでいることに大路は気が付いていない。果たして、鈍感なのはどちらの方なのか。
「……なんにしても、これ以上勘違いお馬鹿ちゃんが増える前に、さっさとくっついてくれたら誰も気を揉まなくて済むんだけどなあ。ねえ、お馬鹿ちゃん?」
意地の悪い佐々木の言葉に呼応して、呻く少女の声と机に額を強かに打ちつける鈍い音が教室に響いた。
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