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15 なみなみ
「おみず入ったよー」
庭から聞こえる杏珠の声。子供用のプールに水を張り、ボールやアヒルのおもちゃを浮かべて準備万端だ。
あの晩の出来事を経て、瑛太郎と彼らの距離はさらに縮まった。毎週末には必ずと言っていいほど訪れ、食事をしたり、近くの公園で遊んだり。今日は杏珠のたっての願いで庭にプールを出すことになった。日の光が水面に反射してきらきらと光っている。杏珠は海に行ったときのお気に入りの水着でご機嫌だ。
「志憧は入らないの?」
「入ったら水がなくなる」
「そっかー」
杏珠はあっけらかんと答えて、水遊びを再開した。鼻をつまみ、どぼんと潜ったかと思うと、水しぶきを上げて水から飛び出す。
ベンチを出して、志憧と瑛太郎は遊ぶ杏珠の様子を見ながら茹でたトウモロコシを食べた。時折水から上がってきた杏珠が、芯からはずした粒を二、三個口に放り込む。そしてまた水に入って遊ぶのを繰り返す。
「また海に行きたいですね」
瑛太郎は言った。本心だった。杏珠が水遊びをしていると、あの冷たい海にまた足を浸したい、と思ったのだ。志憧は瑛太郎と視線を交差させると、そうですね、と穏やかに答えた。
互いにあの晩の話題には触れず、しかし気まずくなることもなかった。志憧の端正な横顔は憂いを帯びて色っぽく、その都度瑛太郎はあの晩の唇の感触を思い出していた。
彼は自分と同じく、同性を愛する指向を持っていた。それは幸運だったが、彼が持つ過去が重すぎて簡単には喜べなかった。それに、杏珠という宝を前にして、自分など入る隙はないと感じていた。
「瑛太郎さんは優しい」
「・・・え?」
「あなたに選ばれた人はきっと幸せだ」
「・・・・・・」
この時代でもいまだ形見の狭いマイノリティ。選ぶも選ばないもない。そもそもそんなこと、不可能だと思って生きてきた。
「志憧さんは・・・このまま杏珠ちゃんとふたりきりで生きていくんですか」
「・・・そうでしょうね。杏珠が僕のそばを離れない限りは」
「きっと離れたりしませんよ」
「今はね。大人になれば、誰でも独り立ちするものです。それにこれから何年も、大変な時期が続きますし」
「そう・・・ですね」
血の繋がらない娘を持つ独身の男。いずれ杏珠も好きな男が出来、志憧の元を離れていく。その時、亡き恋人の面影を持つ娘を手放すことが本当に出来るのだろうか。
「これは僕の業なので・・・杏珠が大人になって離れていっても、僕は一生、この子の父親でいるつもりです」
瑛太郎は反射的に呟いていた。
「志憧さんの幸せはどこにあるんです?」
志憧はゆっくりと瑛太郎を振り向き、薄く唇を開いた。
「僕の・・・?」
しまった、思ったときには遅かった。言うつもりのなかったことを口走った瑛太郎はすぐに謝った。
「すみません、立ち入ったことを・・・」
「いいえ、かまいません」
杏珠はボールをプールの外にはじいては、拾ってまた水の中に戻ったりと忙しい。志憧と瑛太郎が深刻な話をしていても、一人遊びに夢中になっていて気にならないらしい。
「僕は杏珠が無事に育つことだけを考えてきました。自分の幸せは杏珠が幸せでいることだと。でも」
志憧は言葉を切った。
「そんなこと・・・考えたことなかったな」
「・・・・・・」
志憧は泣き出しそうな顔で微笑んだ。彼の中で、亡くなった恋人の存在が大きすぎるのだろう。杏珠が大人になる頃には、その気持ちは薄れていくだろうか。それとも年を重ねれば重ねるほど、想いは募っていくのだろうか。
「寂しくないですか」
「瑛太郎さん・・・?」
「側に誰かがいたら、寂しさがまぎれませんか」
瑛太郎はベンチの上の志憧の手に自分の手を重ねた。杏珠はプールの水を両手ですくいあげ、外にかきだすのに夢中だった。二人が見つめ合っていることは気づかない。
「・・・・・・瑛太郎さん」
志憧は杏珠に視線を戻した。そして瑛太郎を見ずに手を握り返した。
「杏珠は・・・・・・九時には寝ます。きっと今日は疲れてぐっすり眠ると思います」
「志憧さん・・・」
志憧は瑛太郎の手を離した。ベンチから立ち上がり杏珠の側に寄った。杏珠は待ってましたとばかりに、志憧に水を浴びせかけた。
なみなみと溜めたはずのプールの水は、もう半分ほどにになっていた。
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