19 氷

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19 氷

「かえるの?」  志憧(しどう)の体調が落ち着いたのを見計らって鞄を持った瑛太郎(えいたろう)を見上げ、杏珠(あんじゅ)は尋ねた。 「よるごはん、たべないの」    一緒に食べていかないのか、という意味だとわかり、ええと・・・と口ごもっていると、志憧が言った。 「まだ不安なのだと思います。よければ夕食まで、ご一緒してもらえませんか」  杏珠はこくこくとうなづいて、瑛太郎のワイシャツの袖を引いた。瑛太郎は「わかったよ」と杏珠に答え、志憧に笑顔を返した。なによりも志憧が安心した顔をしていた。 「簡単に、素麺にしようと思うんですが」 「じゃあ、僕は薬味を」  キッチンに並んで立つ。この家に出入りするようになっても、こんな体験は初めてだ。  杏珠は志憧のいいつけで、リビングで茹でた枝豆を鞘からはずしている。適当な鼻歌が聞こえてくるので、ご機嫌のようだ。しばらく無言で調理をしていたが、茹で上がった素麺を水ですすぎながら、志憧が言った。 「・・・今日は、どうして?」 「え?」 「もう・・・・・・ここへは来ないかと」 「・・・そのつもりでしたが、足が勝手に」 「勝手に?」 「ええ」 「そんなことがあるものですか」 「ある・・・みたいです。おかげで間に合いました」 「・・・ありがとうございます」 「そういう意味じゃなくて、あの」  志憧の手は止まっていた。水道から水が流れ続けている。 「僕があんなことを言ったからですね」  杏珠は九時には寝ます。確かにあの言葉で瑛太郎に火がついた。でも乗ったのは瑛太郎にほかならない。 「・・・お互い様です。僕もそれを理由にあなたに近づきました」 「軽蔑したでしょう。子供のいるところであんな・・・」 「それについては僕も共犯です」  志憧は黙り、水道を止めた。素麺を乗せたざるを振り、水を切る。瑛太郎は長葱を切る作業に戻った。  志憧は大きな皿を戸棚から出した。そこに大量の氷を敷き詰め、器用な手つきで素麺を一口大に丸めては乗せていく。それを真似て、瑛太郎も素麺を丸めてみたがうまく形作れない。 「難しいですね」 「慣れれば簡単ですよ」  素麺をすべて盛りつけ終わる頃には、そろそろ枝豆に飽きた杏珠がつけたテレビの音が聞こえてきていた。アニメ番組のオープニング曲を楽しそうに歌っている。  敷き詰め用の氷が余った。暑いキッチンで、志憧も瑛太郎も汗だくだった。志憧は額の汗を拭いつつ、ひょい、と小さなキューブ型の氷を口に含んだ。   「僕も貰ってかまいませんか」  志憧は口を押さえながら、こく、とうなづいた。瑛太郎は残った氷に手を伸ばしかけて止まった。  そして志憧の手をはずし、氷を含んだ志憧に唇を重ねた。志憧の口の中で氷は角を失いまるくなり、つるり、と瑛太郎の口の中に移動した。
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