20 入道雲

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20 入道雲

 翌日が土曜日ということもあり、杏珠(あんじゅ)瑛太郎(えいたろう)に泊まっていってくれとせがんだ。志憧(しどう)が倒れたときの恐怖がまだ抜けないようだった。   「リビングで三人で寝るか」  志憧が言った。それには瑛太郎もすぐに賛成した。そうでもしなければ二人は互いを求めることをやめられない。  そんなことを知る由もない杏珠は大喜びで、卓袱台をよけて敷いた布団の真ん中に、キャラクターの柄のついた枕を持ってきて置いた。  まさか川の字で眠ることになるとは。瑛太郎は志憧のTシャツとスウェットを借りた。お先にどうぞ、と言われて風呂に入り、そのあと杏珠が入った。志憧が髪を洗ってやる間中、にぎやかに杏珠の歌声が聞こえ、その次は、いーち、にーい、さーん、と数を数えている。真夏なので早めに上がってきたが、杏珠の顔からはほくほくと湯気が上がっている。パジャマは地がピンクで、白いリボン飾りがまんべんなく縫いつけられた可愛らしいデザインだ。扇風機の前に陣取った杏珠に、風呂場から志憧が叫んだ。 「ちゃんと乾かすんだぞ」 「わかってるー」  多分髪の毛のことを言っている。瑛太郎は扇風機と向かい合っている杏珠を反転させて、髪を乾かすのを手伝った。  父親と風呂に入り、髪を乾かすのは母親がやってくれるもの。瑛太郎の子供のころはそれが当たり前だった。乾かすのが面倒でよく逃げ回ったものだ。しかし杏珠には母親がいない。普段もこうやって、志憧が風呂に入っている間、自分で扇風機の前に座るのだろう。気持ちよさそうに髪をなびかせ、杏珠は自分の腕の赤いまるい痣を触っている。 「それ、どうしたの」 「むしさされ。かゆいの」 「掻いたらもっと痒くなるよ」 「だってかゆい」  仕方なくぱちんと叩いてみたり、ふーっと息を吹きかけてみたりしてみるが、やはり痒さには抗えないらしい。 「ほら、薬」  杏珠の頭の上にボトル型の痒み止めが乗せられた。濡れた髪の志憧が立っていた。大判のバスタオルで上半身を覆っている。下は、さっきのハーフパンツ。 「くるくるするんだぞ」 「うん、くるくる」  杏珠は真剣に赤い痣の真上に、ボトルをさかさまにしてスポンジから薬液を染み出させた。それから小さな円をくるくると回し、大仕事を終えたように、ふうと息を吐き出した。志憧はその間に寝間着用のTシャツを着て戻ってきた。同じシャンプーの匂いが瑛太郎の理性を揺さぶるが、今夜は杏珠が側にいるという安心感があった。  三人で並んで布団に座った。暑いからという理由で、上掛けはそれぞれタオルケット一枚ずつ。杏珠は暑がりだそうで、夜中何度も掛け直さないといけないとか。 「今日はこれよむ」  杏珠は自分の部屋から持ってきた絵本を開いた。表紙は青い空に入道雲が書かれている。タイトルは「くも」。  いろいろな種類の雲が描かれていて、動物や虫たちがその雲について話し合う、という内容だった。 「どの雲が好き?」  瑛太郎が尋ねると、えっとね、えっとね、と一生懸命ページをめくり、これ!と言って指をさして教えてくれた。 「ソフトクリームのくも!」 「入道雲だね」 「にゅうどうぐも?」 「そう、夏の雲だよ」 「なつ」 「明日探してみようか」 「うん!」  瑛太郎と杏珠の会話を、志憧は穏やかに微笑みながら見ていた。本を読み終わると杏珠は仰向けにひっくりかえり、足をばたつかせながら歌を歌いだした。何の歌かは知らないが、とにかく杏珠は歌が好きだ。幼稚園に行っていないのだから、習っているわけではなさそうだが。 「杏珠、そろそろ寝る時間だぞ」 「ねむくない」 「明日、ソフトクリームの雲を探すんだろ」 「さがす!」 「じゃあ寝ないと」  むむ、と難しい顔をすると、仕方なさそうに杏珠は静かになった。 「しどう、おうたうたって」 「なにがいい?」 「えとね、パセリのうた」  パセリの歌なんかあるのか、と思った瑛太郎は、次の瞬間、いくつものことに驚いた。  ひとつめは、杏珠が志憧にせがんだ歌が、「スカボローフェア」だったこと。ふたつめは、志憧の英語が流暢だったこと。そして最後は、杏珠が志憧のまねをしてなかなかの英語で歌うことだ。特に、パセリのあたりを。  志憧は英語が流暢なだけでなく、いい声で上手に歌う。杏珠の歌好きは志憧ゆずりなのではないかと思うほどだ。   杏珠のお腹をとんとんと叩きながら歌う志憧。歌まねしていた杏珠はいつのまにかうとうとし始め、二番にさしかかる頃には瞼を閉じた。  「歌が上手ですね」  小声で瑛太郎が言うと、志憧は「好きなんです」と恥ずかしそうに微笑んだ。杏珠にタオルケットをかけ、志憧は部屋の灯りを消した。小さなスタンドライトだけを残して、志憧と瑛太郎も横になった。  杏珠の寝息に誘われるまま、瑛太郎も眠りに落ちていった。
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