28 しゅわしゅわ

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28 しゅわしゅわ

(俺はなにをやってるんだ?!子どもの前で!)  走りながら瑛太郎(えいたろう)は激しく自分を責めた。今まで注意して、墓穴を掘らないように生きてきた。志憧(しどう)と知り合ってからも、杏珠という存在を汚さないように細心の注意を払ってきたはずなのに。  杏珠(あんじゅ)の瞳ははっきりと瑛太郎を批難していた。まだ幼くとも杏珠が「女」であることを突きつけられた。瑛太郎の最も苦手とする生き物の独特な視線だ。 (軽蔑された・・・こんどこそ、二度と彼らには会えない!)  本気で志憧を愛し始めていた。図らずも身体の関係を先に結んでしまったが、瑛太郎は本気だった。杏珠とも順調に信頼関係を育んでいたし、彼らと家族同様にになるのは時間の問題だと思っていた。  それを自分でぶち壊した。  気がつくと、自分の家の前まで来ていた。全身汗だくで息が切れている。通りすがりの主婦がいぶかしげな視線を寄越してくる。瑛太郎はアパートの外階段を上がり、自分の部屋の前まで足を引きずって歩いた。鍵を開けて入ると、籠もりにこもった空気がまとわりついてくる。クーラーはない。窓を開けても暑い空気しか入ってこないが、喚気の為に開け放し、床の上に大の字になった。  思えばここ半年近く、瑛太郎は志憧と杏珠のことばかり考えていた。何度も彼らを訪ね、出かけ、時には志憧の過去を会社で調べた。結局のところ彼らの本当の事情はわからずじまいだった。今となってはもう、それを聞き出すことも出来ない。瑛太郎は大きくため息をついて目を閉じた。  本当だったら知り合うことすらなかった間柄。縁が切れたとしても困るようなことはない。なのに瑛太郎の心はひどく痛んだ。自分の気持ちを優先したばかりに、幼い杏珠を傷つけた。でも志憧は、そんな瑛太郎の本心を知りたがっていた。どちらにしても杏珠を傷つけてしまう結果になる流れだったのかもしれない。  「杏珠ちゃん・・・ごめん・・・ごめん・・・」  志憧を愛した。  杏珠のことは、心から可愛いと思った。  あの二人の仲を引き裂くつもりもなかったし、出来るはずもないと思っていた。自分が杏珠のいる前でとんでもない行動をしてしまったことは、いまだ自分でも説明がつかない。 (回り道なんかしなきゃよかったんだ・・・あの日、まっすぐ家に帰っていればこんなことには・・・)  瑛太郎の目から、ひとすじの涙が流れ落ちた。杏珠を傷つけたことへの後悔と懺悔、そして二度と志憧に会えない、触れることも出来ないことの悲しみ。複雑な事情を抱えていようとも、彼が亡き恋人を忘れられなくとも、志憧の側にいたかった。杏珠が成長する様子を楽しみながら見守りたかった。  瑛太郎は両手で顔を覆った。暗闇のなか、しゅわしゅわ、しゅわしゅわという蝉の声だけが聞こえてくる。  ひと夏の命を懸命に生きる蝉の鳴き声が、瑛太郎には「泣いて」いるように思えた。  それから瑛太郎は本当に、志憧の家には行かなくなった。杏珠に謝りたいという思いはあったが、それよりも合わせる顔がないという気持ちの方が強かった。  気がつけば夏が過ぎ、瑛太郎は以前と同じ生活に戻って行った。あの細道に入ることは決してしなかった。二度と亡くなった野間口(のまぐち)雄飛(ゆうひ)の事故についても調べることはなかった。  季節は移り変わり、年が開けた。瑛太郎が再びあの家を訪れたのは、翌年の三月。桜が咲き始めた頃のことだった。 「秋山くん、これなんだけど」 「はい、なんでしょう」 「ここの物件ね、今度うちで扱うことになったんだけど、周りの様子がちょっと変わってて」 「周り?」 「ここ半年くらい、近所で火事とかが多くて、取り壊しとか建て直しとかが立て続いてるんだよね」 「事故物件ってことですか?」 「いや、うちが扱うのは大丈夫。ただ周りの環境があまりよくないみたいでさ。外回りついでに一応近所の様子、見てきてくれないかな」 「わかりました」  資料を受け取って住所を確認して、瑛太郎は息を呑んだ。これから向かう場所は、志憧の家のすぐ近くだったのだ。
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