29 揃える

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「すぐ帰ればいい・・・すぐだ」  瑛太郎(えいたろう)は自分に言い聞かせながら電車を降りた。久しぶりに歩く町は変わっておらず、通い慣れた道を目的の物件のある住所に向かった。住所は志憧の家の二件先だった。道すがらにばったり逢うことはないだろうと思いつつ、必要以上にあたりを見回してしまう。  そんなに暑くもないのに脇の下に汗がたまる。確かにこのあたり、店が建ってもすぐにつぶれ、続けて新しい店が建つが結局長続きしていない。近くで火事があったのも本当で、寝煙草が原因だったらしい。つまり不幸なことがまわりで起こっているだけで、(くだん)の物件は普通の住宅だった。それでも入居したい人間の中には、近所でそういうことが起こったと知ると、契約を取りやめる者も少なくない。  仕事を終えた瑛太郎は、会社に戻ろうと足を早めた。例の細道が近づいてくると、勝手に心臓が早く打ち始める。  あれから数ヶ月、忘れたくても忘れられなかった。日が経つに連れ、逢いたい気持ちは募るばかりだったが、今さらどうにもなりはしない。とっとと戻って仕事に打ち込もう。そう決めて歩くスピードを上げ、細道の入り口を通り過ぎようとしたときだった。  後から考えれば、その場所から聞こえるはずがない。しかし瑛太郎の耳にははっきりと、間違えるはずのない杏珠の笑い声が聞こえたのだ。 「え・・・っ・・・」  そこから先はよく覚えていない。足は勝手に立ち止まり引き返し、細道に向かった。玄関先にいるのではないかと思ったが杏珠の姿はなかった。そこでやめればいいものを、瑛太郎は無意識に玄関の脇をすり抜け庭へ向かった。  きゃははは、と楽しそうな笑い声が今度ははっきりと聞こえた。向こう側からは見えない角度で、瑛太郎は庭を盗み見た。  そこには、少し成長した杏珠と、変わらない志憧の姿があった。庭に小さな椅子を出し、晴れているのに雨合羽を着て杏樹が座っている。志憧は腕まくりをして背中を覆う杏珠のふわふわの髪をとかしていた。縁側にハサミがあるところ、髪を切るのだろう。 「伸びたな」 「志憧、すこしね、すこしだけね。みつあみするから」 「わかったわかった」  仲むつまじい親子の会話。あどけなさが少し薄れた杏珠は、目を閉じて志憧の手に気持ちよさそうに任せている。  丁寧な手つきで、志憧は杏珠の毛先を切り揃えていく志憧。ぱらぱらと落ちる髪の毛がくすぐったくて杏珠が笑う。  ある程度切ったところで鏡を見せて本人がチェックする。鏡をいろいろな角度に傾けて、うんうん、と満足気にうなづく杏珠。終わったのかと思いきや、今度は三つ編みをしてくれとせがんだ。志憧は優しく微笑み、器用におさげを編んでゆく。  二人の幸せそうな姿が、瑛太郎の心を締め付けた。自分は彼らにとって必要ない。会う前と何も変わらない、二人だけで完結している世界。夏の通り雨のような瑛太郎の存在は、()めばなお日差しがまぶしく感じ、志憧と杏珠の絆はさらに強く結びつくのだ。  最初から瑛太郎の居場所なんてなかったのだ。たとえ一時のあやまちで身体を重ねたところで、志憧の目には杏珠しか、亡き恋人しか映っていない。愛しいひとの面影をもつ少女は、日に日に端正な顔立ちになってゆく。彼女が呼ぶ「志憧」という響きには、数ヶ月前より甘さを感じた。  瑛太郎は一歩後ずさった。彼らの目に、いや、彼の目に瑛太郎は二度と映らない。うっかり音を立ててしまったが、かまわず背中を向け早足で庭を離れた。  追いかけるように杏珠の声がした。 「だれ?」 「杏珠、どうした?」 「だれかいたの、そこに」 「だれもいないよ」 「・・・うん」   瑛太郎は気がつけば、全速力で走っていた。
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