31 夏祭り

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31 夏祭り

「きれい!ねえ見て、瑛くん」 「え?うん、そうだね」  綾奈(あやな)と付き合いだして半年、花火大会に誘われた。数年前、今の職場に移勤した直後から、女性とつきあうようになった。最初の数人こそゲイであることを隠していることが心苦しくうまくいかなかった。三人目の彼女である綾奈はさっぱりした性格で、同性の友人と話しているような気分になる。だからこそ半年も続いているのだ。身体の関係こそ少ないが、淡泊なのだと思ってくれているようで、問題になったこともなかった。  彼女に誘われるまで、その花火大会があの町のとなりで行われるのだということに気付かなかった。杏珠(あんじゅ)と線香花火をした思い出。あれは間違いなく、例年行われる有名な花火大会の日だった。  あれから何年たったのだろう。 「瑛くん」 「うん?」 「来たくなかった?」 「え?どうして?」 「楽しそうじゃないから」 「ごめん、そうじゃなくて、ちょっと考え事してた。昔この近くに住んでたことがあったから」 「そうなの?じゃあ花火大会も何度も来てるの?」 「いや、それが行ったことなくて・・・近すぎたからかな」 「そうなんだ~、あ、ねえ、屋台行こうよ」  ごった返す大通りは、両脇に屋台が並んでいるのでなかなか進まない。綾奈が喉が乾いたというので、フルーツジュースを売っている屋台に入った。 「あ、これおいしそう、イチゴ」  綾奈の言った台詞で、もう忘れたはずの声が頭の中で響いた。 (イチゴのジュースのみたい)  祭りの日に迷子になった杏珠。一緒に志憧(しどう)を探し、無事に会えた後三人で屋台のジュースを飲んだ。あのあとから瑛太郎と親子は急激に距離が近づいた。  綾奈に気付かれないよう、瑛太郎はごく自然な雰囲気で、じゃあ俺もイチゴで、と答えた。初めて会ったのは花火大会ではなく、住んでた町の神社のお祭りだ。同じ味がするはずもないのに、瑛太郎はイチゴのジュースで杏珠のあの時の気持ちを再現しようとした。 「瑛くん、甘いの苦手じゃなかったっけ?」 「え?」 「これすごく甘いけど大丈夫?」 「え・・・・・・うわ、ほんとだ・・・・・・」  眉間に皺を寄せる瑛太郎を、おかしそうに笑う綾奈。ほんの数年前、こうやって女性と祭りにいくことなど、思いも寄らなかった。  瑛太郎は志憧を愛していた。そして杏珠のことも愛おしく思っていた。きっとこの先、死ぬまで誰にも告げることのない、ひと夏の大切な思い出。 「あ、ねえ、あのベンチ座らない?」    綾奈はちょうど二人分空いた、道路沿いのベンチを指さした。そうだね、と瑛太郎が答えると綾奈はそこが誰にも取られないように早足で近づいた。走り出した綾奈と瑛太郎の隙間を人並みが遮り、瑛太郎にどしん、と誰かの肩が当たった。    「・・・ん?」  かしゃん、と音がした。瑛太郎にぶつかり謝りもせずに通り過ぎていったカップルの男の後ろに、何かが落ちている。瑛太郎は人が通り過ぎるのを待ってそれを手に取った。 「瑛くん?」  離れたところから綾奈の声がするのに、瑛太郎は動けなかった。そこに落ちていたのが、見覚えのあるものだったからだ。  遊園地で買った、杏珠への土産のイヤリング。プラスチックが劣化してくすんでいるが、確かに蝶の形をした、あれだ。量産されるものに違いないが、瑛太郎はそれが杏珠に買ったものだと確信した。   「瑛くん、どうしたの?」 「あ、ああ、ごめん」  綾奈に呼ばれて我に返った。イヤリングを握りしめ、ベンチに駆け寄った。しかしまだ諦めきれず瑛太郎はあたりを見回した。  すると、覚えのある香りが鼻をくすぐった。甘いような、切ないような、心臓を締め付けられるような気持ちになる香り。それがなんなのかわからないまま、香りのする方に振り向いた。  人混みの中、瑛太郎は信じられない光景を見た。白い開襟シャツに紺のデニムの背の高い細身の男。そしてその傍らには、白地に朱赤の金魚柄の浴衣に山吹色の兵児帯(へごおび)の少女。まだ幼く、小学生にも満たない。彼らは仲むつまじく手をつないでいる。  そんな馬鹿な。あれからもう何年も経っている。最後に会ったとき、来年には小学校に上がると言っていたはずだ。これではまるで、初めて会ったときと同じじゃないか。 「杏珠ちゃん・・・・・・?」  瑛太郎の声はかすれ、人混みにかき消えた。なのに、彼らは足を止めた。  そして二人は振り返った。瞬間、あの香りが瑛太郎を包み込んだ。それは志憧と身体を重ねた時、彼の肌から匂い立った香り。  志憧と杏珠はまさに初めて出会ったときのまま、にっこりと微笑んだ。 「ま・・・待って・・・っ」  瑛太郎が駆け寄ろうとした時、杏珠の口が動いた。 (おにいちゃん、またね)  声は聞き取れなかった。しかし杏珠は確かにそう言った。志憧は杏珠の傍らで優しく微笑んでいる。杏珠は瑛太郎から視線をはずすと、志憧を見上げた。横顔にきらりと光ったのは、まさしくあの蝶のイヤリング。彼らは歩き出し、あっという間に二人の姿は人混みに消え見えなくなった。    彼らが本当に志憧と杏珠だったのか、それとも瑛太郎の求める心が見せた幻だったのかはわからない。   空き地だったはずの場所にいつしか建っていた家と、亡くなった恋人の娘を育てる不思議な男。しかしどこを調べても、恋人に娘がいたという記録はない。ひょんなきっかけで知り合った瑛太郎と親子はほどなくして親しくなり、瑛太郎は初恋の男に面差しが似た志憧に惹かれた。  互いに相手を失った相手に重ねた。いろいろな理由を盾にして向かい合うことを恐れたが、二人は心の奥で手を伸ばし合った。しかし志憧には、なにものにも代え難い存在がいた。  杏珠。  亡き恋人の忘れ形見。それが本当かどうかはもう、今となってはどうでも良かった。  もっと時間をかけていればどうにかなっていたのか。もっと慎重になっていれば、うまくいったのだろうか。    いや。  瑛太郎は握った手を開いた。蝶のイヤリングはくすみ、輝きを無くしている。杏珠の肩耳で揺れていた蝶は、キラキラと光っていた。  もう過去なのだ。夏祭りでの出会いも、線香花火も、すいかも、海水浴も。志憧と交わした情も。濃厚な夏の思い出は取り戻せない。もう一度あの家を訪ねても、会うことも出来ないだろう。  すべてが最善だった。たとえひとときであっても愛し合い、慈しんだ。それが彼らとのすべて。   「知り合い?」  綾奈が言った。うん、昔のね、と答えて、瑛太郎は彼女の隣に腰を下ろした。  あの幸せな夏に戻ることは出来ない。  すべては、あとのまつり。           完
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