6 筆

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 杏珠(あんじゅ)はおぼつかない足取りで、トレーに載せた麦茶を運んできた。 「むぎちゃ、すき?」 「好きだよ」 「じゃあどうぞ」  花火が終わり、瑛太郎(えいたろう)は家に招かれた。杏珠は瑛太郎が気に入ったのか、麦茶の次はカップに入ったアイスクリームを三種類持ってきて、卓の上に並べた。どれがいい?といいつつ彼女は自分の一番近くに置いたストロベリー味のアイスをじっと見ている。イチゴ味は譲れないようだ。バニラを選ぶと、最後に残ったチョコレート味のアイスは父親のものになった。   質素な家具が並ぶリビングの真ん中に据えられた、古めかしい卓袱台。それを囲んで三人でアイスクリームを食べる。不思議な出来事だった。  この家には母親がいないのか。片づいてはいるものの、女性がいるような細やかな様子はない。杏珠はアイスをぺろりと平らげ、もういっこ、と言って父親にたしなめられている。杏珠は二個目のアイスをあっさりと諦めると、空のカップを持ってキッチンに走った。 「あの・・・・・・」  母親はいないのか、と聞きそうになってあわててやめた。もしも事情のある関係性だったら失礼だ。  瑛太郎の様子を見て悟ったのか、父親は微笑んだ。 「・・・・・・杏珠の母親は、早くに亡くなっています」 「す・・・すみません」 「いいえ」  父親は気にしていないように言った。そもそも彼は本当に杏珠の父親なのか。「しどう」というのは、彼の名前なのか、未だにわからない。  すると申し合わせたように、杏珠がキッチンで叫んだ。 「しーどーうーっ、あれとってー」    しどう。あれ以来杏珠が「パパ」と呼んでいるのを聞いていない。いまいくよ、と答えて父親、もとい「しどう」は立ち上がった。  キッチンから戻ってきた杏珠は手で持つタイプの小さな扇風機を持っていた。あついねー、と言って杏珠はスイッチを入れた。瑛太郎は新しい麦茶を注いでもらっているうちに、体の冷えが進み、不意にトイレに行きたくなった。 「あの、お手洗いを借りても?」 「どうぞ、廊下の突き当たりです」  杏珠は小さな扇風機を「しどう」の顔に当てて遊んでいる。瑛太郎は廊下に出て、水色の飾りの下がったトイレのドアを開けた。  用を足してトイレを出ると、すぐ隣にドアが薄く開いたままの部屋があった。見るつもりもなかったが、薄暗い部屋の様子が瑛太郎の目に飛び込んで来た。子供部屋のようだった。いけないと思いながらも、瑛太郎はその部屋の中をのぞいてしまった。  古い学習机と子供用のベッドが一台。オフホワイトの絨毯が敷いてあり、カーテンは水色のストライプ柄だ。木製のこじんまりとしたタンスの上には、年季の入った黒いランドセル。   小学生男子の部屋、といったところか。杏珠の兄だろうか?でも部屋の空気は淀んでおり、しばらくの間誰も使っていない雰囲気がある。学習机の前に貼ってあるのは、「志憧」という筆文字が書かれた半紙。明らかに子供の習字だが、その筆使いは力強く、紙面いっぱいを「はね」や「はらい」で埋まっている。 「志憧」が「しどう」と読むことに気づいて、瑛太郎ははっとした。 「いい字でしょう」  背後からの声に瑛太郎は飛び上がった。振り向くとそこには「しどう」が立っていた。 「す・・・すみません、部屋を間違えて・・・」  苦しい言い訳しか出ない。しかし彼は微笑んで言った。 「それは、僕の名前なんです」  やはりそうだった。志憧。珍しい上に美しい字面。杏珠はなぜ、彼を名前で呼ぶのか、それについてはやはり聞きづらい。 「杏珠が夕食を一緒に食べたいと。まだお時間は大丈夫ですか」  気が付けばそんな時間だった。お邪魔ではありませんか、と尋ねると、ふたりだけですから、と志憧は答えた。
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