9 団扇

1/1
前へ
/31ページ
次へ

9 団扇

 外回りの途中、瑛太郎(えいたろう)はコンビニに立ち寄った。うだる暑さにミネラルウォーターを一本と、普段は買わないカップ入りのかき氷を買った。  コンビニの近くにある公園のベンチは日陰になっているが、気温が高過ぎてまったく涼しくない。とりあえず、かき氷の蓋を開けた。  どぎついピンクのシロップとクリームの入ったかき氷。この際冷たければなんでもいいと選んだ。体の中から少しずつ冷えていくのが心地いい。それでも汗は止まらず、スラックスのポケットからハンカチを取り出した。が、すでにしっとりと濡れている。ここに来るまでに何度も何度も汗を拭った。やれやれ、と言いながらポケットに戻した時、ふと頭上が暗くなった。   「こんにちわ」  瑛太郎が顔を上げると、そこに立っていたのは志憧(しどう)だった。今日はひとり、杏珠(あんじゅ)はいない。数日前の不思議な夢を思い出さずにはいられなかった。 「こ・・・・・・こんにちわ」 「暑いですね」  志憧は少し間を開けて、瑛太郎の傍らに腰を降ろした。瑛太郎は汗だくだというのに、志憧は涼やかに微笑んでいる。その額に汗も滲んでいない。 「よかったらどうぞ。使ってください」  志憧はタオル地のハンカチを取り出し、瑛太郎の前に差し出した。 「いや、あの、平気です」 「でも、汗だくでしょう」 「あ、はは・・・・・・」  そのとおりなのだが、どうにも気まずい。しかし自分のものは使い物にならない。瑛太郎は差し出された志憧のハンカチを受け取った。それを広げて額の汗を拭った。このハンカチがあれば、洗って返す時に志憧に会える。そんなやましいことを考えながら瑛太郎は首筋の汗も拭った。 「かき氷ですか」  気がつけば、暑さでただの甘い色水になっていたかき氷。そもそも口をつけたものを勧めるわけにはいかないが、幸い水のボトルは手つかずだ。   「こ、これ、飲みませんか」 「え?」 「ハンカチのお礼に・・・まだ冷えてます」 「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」  志憧はボトルを手に取り、キャップをひねった。勢いよく水をのどに流し込む志憧を、瑛太郎は横目で見た。  上下する喉仏、濡れた唇。 「助かりました。のどが渇いていて」 「いいえ、こちらこそです、あの・・・」  瑛太郎ははたと思い出した。ついさっき取引先から、相手の社名の入った団扇を貰ったのだった。扇いだところで熱風だが、ないよりはいい。 「使いますか、団扇」  鞄から出した団扇を見ると、志憧の顔が子供のようにぱっと明るくなった。そして柄を持つと、嬉しそうに自分の顔を扇いだ。 「涼しい」  志憧のそんな顔は初めて見た。瑛太郎はつられて笑った。 「今度の日曜日、杏珠と海に行くんです」  志憧は団扇をゆっくり上下に動かしながら言った。 「日曜日、お仕事ですか」  瑛太郎はそれが自分に尋ねられているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。 「い、いいえ、休みです」  「よければご一緒にどうですか。杏珠が瑛太郎さんを誘ってほしいと」 「え・・・っ?」 「隣町の海水浴場です。どうですか」 「あ・・・ありがとうございます、じゃあ、あの、お言葉に甘えて・・・」 「良かった、杏珠に伝えます」  志憧は立ち上がった。水のボトルと団扇を持って、いただいても?と言った。どうぞ、と答えると、志憧は瑛太郎ににっこり笑い返した。日曜日の朝、最寄り駅で、と言って志憧は公園を出て行った。  瑛太郎は志憧のハンカチを持ったまま、あることを考えていた。  志憧に会ったのは三回目。今まですべて偶然だ。花火のとき、名字を伝えた。名前までは伝えていなかった。    でも志憧ははっきりと、「瑛太郎さん」と言った。  
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

92人が本棚に入れています
本棚に追加