黄緑

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黄緑

 2012年5月。  その月の5日は大安で、連休の最後から二番目、確かに結婚式にはちょうど良い日取りだった。  しかし5月に入ってから徐々に天気は荒れ、大気は不安定で、強風やら雷やらが日本のあちこちで荒れ狂ったのである。  ……と思ったが結局、5日は朝からからりと晴れた。賀川は「すごいな」と呟いた。この強運を持っているのが塚村か、あるいはお相手か。  姿見の前で自分の姿を確認する。色はライトカーキで、総レースのフリルドレス。まあこんなもんだろう。 「由佳~、早くしないと遅れるよっ」  階下で母が呼ぶ声がする。子どもじゃないのだから、もうほっといてほしい。母は今日の結婚式の主賓が、娘の元カレであることを知っているのだ。 「楽しいねえ、楽しいねえ」  最初にその話をしたときの母の言葉がこれだ。どんな親だ。この人を相手にしても仕方がないので、準備を終えると「じゃあ行ってくる」とだけ言って玄関を出た。  塚村と別れてまだ2年しか経っていないが、ずいぶん前のことのように感じた。  彼は職場恋愛にはもう懲りたのか、賀川のまったく知らない場所で、次の相手を見つけた。違う病院の病棟看護師で、二つ年上だそうだ。  結婚の知らせは、年明け早々に本人から教えてもらった。 「式には職場の人も呼ぶんでしょ?」 「呼ぶよ」 「私は?」 「じゃあ、呼ぶよ」  さほど迷うことなく彼がそう言ったので、ほっとしていた。別れてからの二人は、共通の目的意識を持っていたと思う。少なくとも賀川はそう思っていて、元の仲良しに戻りたい、というシンプルなゴールが設定されていた。  彼に抱きつきたいとか、肌に触れたいとか、そういう気持ちはしばらく消えなかったし、職場で顔を合わせることも多少のプレッシャーではあったけど、少しずつ乗り越えた。だから彼の結婚式に出ることは、ひとつのテストだったと思っている。  家から少し歩いてコンビニに着くと、朝田の車が見えた。 「待たせた?」 「いえ、全然。直行で大丈夫ですか?」  運転席に座る彼女は、ネイビーのドレスに身を包んでいた。 「直行しよう」  朝田は車を出した。式はこのあたりでは有名な『杉ヶ丘教会』というカトリックの古い教会で、披露宴はそこからほど近いホテルで行われることになっている。 「賀川さんがホントに来るって思わなかったです、私」  正面を見ながら、朝田は言った。 「ふてぶてしいからね」 「よく言う。そうじゃないくせに」  賀川は少し笑って、何も答えなかった。  この後輩に「バカじゃん」って言われたときの、瑞々しい記憶が残っている。今は可愛いなと思えるけど、やっぱり、彼女も塚村を好きだったんじゃないかという想像は消えないでいた。  教会に着くと、職場の見知った顔がたくさんあった。賀川を見て驚く者もいたが、予想はしていたので、それも楽しむことにした。  ざわつく中で、賀川たちは開始を待つ。  やがて、新郎が姿を見せた。  少し緊張した表情、タキシード姿の塚村だ。不自然なほどに背筋を伸ばし、ゆっくりと聖壇に向かって歩く。賀川は固く手のひらを閉じていた。そういう自分に、少し遅れて後から気付いた。  それから、父親にエスコートされた新婦が、バージンロードを歩いた。初めて見るウェディングドレス姿のその人は、とても綺麗な人だった。  父親から託された新郎は新婦とともに振り返り、賀川たちのほうを向いた。そして一緒に、深く頭を下げる。  パイプオルガンの調べと讃美歌、神父の言葉、それから、愛し合う二人の誓約が、賀川の心を素通りしていく。    指輪の交換の場面になって、思い出したことがあった。  いつだったか、塚村と理想の結婚式について話したとき、彼は「小物にはこだわりたい」などと女子みたいなことを言った。賀川が「招待状とか、ウェルカムボードとか?」と聞くと、彼は「一番はリングピローだな」と答えた。  指輪が眠る枕って、なんか可愛いだろ?  かなり特殊な感覚だと思うよ、それ。  そう答えて、賀川は笑った。取るに足らない会話だったけど、なぜか覚えている。今、賀川たちの目の前で、新郎の手から新婦の指に納まろうとしているその指輪は、どんな枕に眠っていたのだろう。よく見えなかった。  そうして二人が退場するとき、賀川は他のみんなと同じように写真を撮った。「おめでとう」「おめでとう!」と声がかけられる。賀川も小さく「おめでとう」と言った。  式が終わり、会場が移る。  その後の披露宴も、とても華やかで、盛大だった。賀川はそこで行うべきこと、かけるべき言葉、必要な振る舞いを、すべてこなしたと思う。一度だけ塚村と直接言葉を交わす機会があって、「良かったね」と言い、「ありがとう」と言われた。  テストは合格だった。長い一日が終わった。  それから数ヶ月後のことだ。  家でテレビの情報番組を見ていたとき、賀川は「嘘でしょ」と思わず呟いた。その番組では虹の不思議というテーマが組まれていて、日本において虹は七色、ニュートンだって同じことを言っているのだが、アフリカのアル部族という人たちは、これを八色と捉えていると紹介した。  もちろん、見えているものは同じだ。だが、その色を八色と捉える人たちがいる。  紫、藍色、青、緑、黄色、オレンジ、赤。  賀川は頭の中で色を並べた。この部族の八色目は、緑と黄色の間、「黄緑」であった。  黄緑――。  賀川はすぐに塚村に伝えたくなって、LINEの画面を開いた。もう家庭もあるのによその女からの連絡というのは、迷惑かけるだろうか。まあいい。 『虹は本当は八色だったって知ってる?』  いきなり本題、そして少しだけ、事実を簡略化して伝えた。一時間ほど経ってから、返事があった。 『初めて温泉旅行に行ってさあ、その後のことを覚えてる?』  質問に質問で返してきて、しかもちょっと想像していない内容だったので、賀川は面食らった。 『賀川が俺に、もう休日出勤なんかさせないって言ったんだよ』 『あったね、そんなこと。でも何の話?』  本当に意図が分からなくて、とりあえずそれだけ返信した。あの旅行が楽しすぎて、何だかもう塚村を仕事に奪われるのがイヤでイヤで仕方なかったから、そんな宣言をした記憶がある。 『俺のセリフをパクって、一階と二階じゃ顔も見えないじゃんって怒ってさ』 『だから、何の話よ』 『覚えてないんだな、医事課の窓口に、俺が花を置いただろ』  えっ――。  覚えてない、いや思い出した。けどあれは、患者向けの花だったはず。患者サービスの一環だとか何とか。 『賀川の席から見えるように置いたんだ。寂しくないように』 『なんていう花?』 『クレマチス・ピクシー、黄緑の花だよ』  やられた……。 『まあ多分、賀川のために置いたってことは、気付いてないなと思ってたよ』 『どうしてよ』 『賀川は、アル部族じゃないだろ』  その文字を見て、不覚にも大笑いしてしまった。  あの頃の自分の、青くて、幼くて、みっともない甘い束縛(、、、、)を、彼は受け入れるでも拒絶するでもなく、さらりとかわした。  そんな余裕やテクニックがあるなら、私の昇任くらい自分の中で処理できなかったのか。  …とは聞かない。もう、今さら。  今度こそ本当に、終わりにできると思った。  あれからいろいろあった。賀川が昇任して一年後、塚村も昇任の内示を受けた。部署は医事係長で、竹脇の後任だ。その内示の翌月に東日本大震災が起きて、この町は震度六強という強烈な揺れを受けた。中央病院も、建物にかなりのダメージがあった。  そんな時間が、二人の間を通り過ぎて行った。  最近の賀川はというと、渕上公平(ふちがみこうへい)という冴えない会社員と知り合って、「好きだ」「付き合ってほしい」という告白を受けたところである。応諾するかどうか、まだ返事は保留にしていて、今後の彼の頑張りにかかっている。  その意味では塚村も頑張ったが、しかし彼は約束を反故にした。  賀川が思いつきで言った、自分自身も覚えていなかった虹の花束の約束を、最後のアネモネで失敗し、約束を守らなかった。  そんな男だ。  そんな男でしかない。  そうして今も賀川は、「守られなかった約束」の価値を、測りかねている。
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