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2009年5月。
塚村と付き合い出して一ヶ月が経過したが、双方とも忙しすぎてデートらしいデートは一回もしていない。食事に何度か行っただけだった。
賀川はもともとさほど忙しくなる予定もなかったのに、新しく来た浅利という医事課長が妙に張り切っていて、業務の見直しだの効率化だのと言いだしたので、余計な仕事が増えたのだ。
だがもちろん、休日出勤までしているわけではない。圧倒的に忙しいのは人事課で、塚村は朝田あかねを含む回りのフォローに精を出している。
「おかしいよね、付き合い始めたばっかなのに、遊びに行く時間も作れないなんて」
当然だが、賀川から突っかかることが増えた。
「時間なんて作ろうと思えば作れるし、そう思わなきゃいつまでも作れないんだよ」
「わかってる、もうちょっとだけ待って」
とにかく仕事に手を抜けないタイプで、付き合うまでは偉いなあと思うこともあったが、今はイライラの根源だ。そもそも我々係員ごとき、そこまで大した責任も負ってないだろう。何がフォローだ。
それでようやく、五月の連休に遊びに行く予定ができた。この年は有給休暇を使わなくても、最大で五連休となる。
「ネモフィラが有名な公園があるから、そこに行こうか」
プランとしては嘘みたいに惹かれなかったが、ようやく確実な約束ができたのだから、それは嬉しかった。賀川が「泊り?」と聞くと「できれば」と言うので、一泊旅行となった。
塚村の車で向かったのは、県内にある公園で、それまで賀川は知らなかった。時期としてはもう終わりに近かったのか、人はまばらだ。
一面に広がるネモフィラを見て、賀川が「うわぁ綺麗、青カビみたい!」と叫ぶと、塚村はげんなりした顔をしてみせた。
「何だよ、そのたとえ」
「ダメだった? だって――とりあえず青いから」
呆れたような顔をしたけど、彼は彼で「あはは」と笑って楽しそうである。当然といえば当然だ。好きな女と付き合って、旅行にまで来られたのだから。楽しそうでなければおかしい。
宿泊は有名な老舗旅館で、源泉かけ流しの温泉もある。賀川は大の温泉好きなので、ここはよく知っていた。
「けっこう良いとこ取ったね。高いんじゃない?」
「たった一泊だから、せっかくだし」
「嬉しいな」
部屋に案内されて、荷物を置いて、スプリングコートを脱いで、仲居が去ったのを見計らうと、賀川はすぐに「えいっ」と抱きついた。昔からハグとかスキンシップがそれほど好きではなかったはずだけど、相手が塚村なら何度でもしたいと思っていて、そういう自分に少し驚いた。
「塚村さんが呆れるほど、くっついていられるよ、私」
塚村は少し黙ってから「俺も」と言って、ぎゅっとしてくれた。職場とは違う彼を知っていること、それが嬉しい。
ところでこの一ヶ月、デートは一回だってしなかったけど、実はけっこうやることはやっていて、キスは数えきれないし、お泊りも四回ほど。だから何となく、こういうときの二人の定番とか、手順みたいなものもできている。緊張もさほどしなくなって、良いドキドキだけが感じられた。
久々だけど、恋愛ってけっこういいな――。賀川は他人事のようにそう思った。
それから姫・殿に分かれて温泉に入った。茶褐色の硫酸塩泉を中心にいくつか種類があって、露天風呂もある。賀川が部屋に戻ると浴衣姿の塚村が待っていた。
「ちょっと歩こうか」
「いいね」
このあたりは小ぢんまりとした温泉街があって、そぞろ歩く人がけっこう見られた。今日は季節も天気もいいし、17時という時刻もちょうど良い。外に出ると涼しい風が火照った肌を撫で、何とも心地良かった。
蕎麦屋、イタリアン、甘味処が並んでいて、目を引く。それから土産物屋なんかを見てまわった。
「やっぱ旅行はいいね、非日常って感じ。こういう時間がほしかったんだよ私は」
半分責める意味で、賀川は言った。
「悪いなあ、ホントに。俺だって賀川と遊びたいんだよ」
「人事課ってなんでそんな忙しいの?」
「年度初めはいつも忙しいけど、今年度は課の目標が『みんなが働きやすい職場作り』ってことで、新しく取り組んでることが多いんだ。超過勤務の縮減とか、育休の取得率向上とかね」
「それって朝田ちゃんも?」
「人事係と厚生係で所掌が違うから、まあそれぞれ別に動いてる感じかな」
嘘つけ、と思った。実は朝田からはちゃんと話を聞いている。
彼女は「塚村さんと一緒にがんばってる」なんていけしゃあしゃあと言い放ったので、「ガンバッテネ」と棒読みで返した。しかし考えてみれば、賀川が塚村と付き合っていることは職場では内緒にしているので、彼女には罪はない。
「でもまあ、ルーティン業務に追われるだけじゃなくて、何か改善する目標があるっていうのは、仕事として楽しいよ。入職してから、初めてやりがい感じてるかも」
それまでしゃがんで草団子を試食していた塚村が、急に賀川のほうを向いてそう言った。言葉通り、確かに目がキラキラしてるように見える。朝田のことから話を逸らす意図では、どうもないようだった。
「仕事が楽しいなら良かったね」
賀川も本心から言った。今のところ、自分には沸いてこない感情だ。純粋にすごいなと思う。仕事に前向きな人は向上もするし、失敗することがあっても糧にするだろう。そうしてきっと、どこでも成功する。
賀川は置いていかれたような、少し寂しい気持ちになった。嘘。
「でも、二人の時間はちゃんと作ってね」
「もちろん。またあちこち行こう」
「朝田ちゃんとのことは、聞かないであげる。頑張ってるみたいだし、あなたを許すよ」
茶化して言うと、「許されなきゃならないようなこと、何もしてないぞ!」と塚村は笑った。ホントかなぁ、と勘繰る。
心配になったのは、例えば朝田も同じように仕事に前向きになって、ひたむきに努力して、塚村がそこを自分と比較するようになってしまったら。
あるいは比較しないまでも、朝田との間に戦友みたいな情が芽生えてしまうことはないか。自分には立ち入れないような、強い絆。
あの二人は職場が二階。自分は一階。相手が見えなくて心配になるのは、塚村だけじゃない、こっちだって同じなんだ。
――なんて、私はそんなことで気を揉むタイプでもなかったっけ。
そう考えて、何だか可笑しくなった。
さて、お土産には何を買おうか。相手は親と弟と、プライベートの友人数名くらいでいいだろう。関係が職場に秘密だと、余計な出費がかからなくて良い。
宿に戻ると、もう食事の時間だった。案の定、試食のしすぎで途中から塚村の箸が進まなくなった。子どもである。
食事を終え、もう二回ほど露天風呂に入り、さらに貸切風呂があったので二人で入って、たくさんイチャイチャした。その後、テレビを見てると段々うとうとしてしまい、夜は眠るのが早かったが、翌日は帰路の途中で水族館に寄った。
旅行は、想像していた数倍は楽しいものになった。
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