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紫
2009年3月。
自分は誰よりも先見の明があると自負しているので、3月という時期がすごく忙しいこと、それにまだまだ寒いってことを、よく見とおしていたのだ。
「塚村さん、すごくないですか、私」
「何いってんだ、そんなの当たり前だろ」
彼はデスクの上に山のように積まれた書類を一枚ずつ確認しながら、こちらをちらっと見て、呆れたようにそう言った。
「まあそうなんだけどさ。それにしても、なんか大変そうですね、厚生係ってどんな仕事してるの?」
「あのさ、その話は今じゃなくてもいいよな? 半年くらい後になるけど」
「何それ、私に帰れって言ってんの」
目を三角にして、彼を睨んだ。今日はどうも遊んでくれそうにない。
誤解されてはいけないので強調するが、今は医事係だってメチャメチャ忙しいのだ。今年は診療報酬の改定こそないが、医事課ではみんなバタバタしている。
「私だってね――」
言おうとしたところで、塚村のPHSが鳴った。「ちょうど良かった」みたいな表情がとてもムカつく。
仕方なく、自分の職場に戻ることにした。
賀川由佳は、医事課に籍を置く医事係員である。14時を過ぎたところで仕事に飽き、息抜きに二階の人事課を訪れたのだ。厚生係員の塚村悟史とは、今月でちょうど丸三年の付き合いになる。
彼のほうが一年先輩だが、友達のような関係だった。
「一番いい息抜きなのにな……くそっ」
賀川はぶつぶつ言いながら、階段を降りた。
採用になったばかりの頃、右も左も分からない賀川の面倒をよく見てくれたのが塚村だ。基本的に優しいし、頼りにもなるので、何となくなついていたけど、職歴がたった一年しか変わらないことに気付いてからは、「なんだ偉そうに」と思い、あんまり敬わないことにした。
席に戻ると、医事課内のヒビだらけでボロボロの壁を見回し、深いため息をついた。
この病院はもともと県立療養所だったので、塚村も賀川も当初は県職員として採用されたのだが、その時点で民間の医療法人への移譲が決まっていたことから、二人とも役場に勤めることなく、初っ端から病院勤務だった。
やがて移譲となると地方公務員としての立場は変わったが、勤め先は同じままだ。県の資金で病棟は建て替えられたが、事務職員がいる管理棟までは金が出せなかったようで、今も結局ボロボロのままである。
どうにも仕事する気の失せる環境だが、仕方がない。もう慣れた。
医事課ではこの時期になると、院内・院外それぞれで診療報酬の内訳だ推移だと統計資料を求められるので、ひたすら作成する。賀川は仕事モードにギアチェンジした。
「賀川、県の補助金の提出資料はオレが作るから大丈夫だぞ」
切羽詰まった顔をしていたのだろうか、正面の席に座る医事係長の竹脇が、心配した様子で言ってきた。
「あ、はい。ありがとうございます」
もともと補助金の資料作りなんか頭の片隅にもなかったので、ありがたみはない。竹脇はたまにご飯に連れてってくれるのでキライじゃなかったが、自分の話ばかりするタイプなので、話相手としては面倒だった。
――やっぱ、塚村さんなんだよな。
改めて、実感する。どう考えても波長が合いすぎるのだ。女友達にだってそうそういないくらい、話のテンポも、空気感も、絶妙なのである。
そう思っていたら、夕方になって塚村が医事課に来た。
「さっきは冷たすぎたと思って」
「謝罪に来たんですか」
「賀川はもう帰るんだろ、残業嫌いだもんな」
こちらの言葉は無視して、塚村が少し笑った。時計を見ると、あと三十分で終業時刻である。
「キライです。残業代いらないからできるだけ早く帰る」
賀川はまだ実家暮らしだったし、今のところ給料の額にはさほどこだわりがない。よほど、時間のほうが重要だ。そのために、仕事を早く終わらせることをいつだって最優先に考えている。
「塚村さんは、遅くまでやってくんでしょ?」
「終わらないからなあ。人事課は今みんな遅いよ」
そう言って、一枚のカードを差し出した。
「何コレ」
「前に言ってた店、なかなか一緒に行けないじゃん。キャンペーンやってるの今月中らしいから、とりあえず賀川だけでも行ってもらおうかなと思ってさ」
それは名刺サイズのクリーム色のカードで、塚村の字で店名と電話番号が殴り書きされている。左下の隅っこに、紫色の花が描かれていた。店は『アイリス』という洋食屋で、そういえば前に「美味しいところ見つけた」と塚村から教えてもらっていた。
「ここって、バイパス沿いにあるところだっけ。キャンペーンなんて別にどうでもいいじゃないですか、一緒に行きたい」
賀川が少し甘えてそういうと、医事課のカウンターあたりにいた竹脇がこちらをちらりと見た。患者から見えるから私語を慎め、という視線にも見えるし、堂々とデートの相談かよ、という嫉妬の目にも見えた。竹脇は独身で彼女もいない。
竹脇には悪いが、どちらかというと後者の仮説だったらいいなと賀川は思った。まあ塚村は慌てて否定するだろうが、今はその視線に気付いていないようである。
「このキャンペーンではシェフ自慢のスペシャルメニューが付いてくるって言うから、逃がしちゃダメだ!」
「何すか、その情熱」
賀川は吹き出した。一人で行ってもつまらないが、そんなに勧めるなら行こうか。
「それにしても、たかがメモ書きにずいぶん綺麗なカードを使いましたね」
「ちょうど店の名前と同じだから、これはいいなと思ってさ。その花、アヤメだよ。いや菖蒲だったかな、とにかくアイリスだ」
説明がよく分からなかったけど、こんな趣味があるなんて意外だなと思った。
紫色の、アヤメのカード。
良いメッセージだな、と思う。何かモノをくれるというのは、シンプルに嬉しいものだ。
それから数日後、店に電話をした。3月27日の金曜日、18時の予約。母親が友人と出かけるというので、食事のアテが無くなった日だ。電話の向こうでは物腰の柔らかい男性の声がして、お待ちしておりますと言った。
念のため塚村に「やっぱ行けないかな」と聞いてみると、「絶対ムリ」と返ってきた。もしかしたらと思って友人も母親も誘わず一人で予約したのだが、これじゃ本当に一人じゃないか。
もしこれで美味しくなかったら、絶対に文句言ってやろ。賀川はそんなふうに心に誓った。
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