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 2009年3月。  その日は朝からとても冷え込んでいて、車から降りてから病院の中に入るまでの数メートルでさえ、足早になるほどだった。  予約は18時だったので、今日は仕事を早々に切り上げて職場を出るつもりだ。  ――まあそれは、いつものことだけど。  ちらちらと時計を気にしながら終業時刻を待つ。一人で行くというのは全然ウキウキするものではないが、新しい店を試すときの一定の喜びはあった。 「じゃ、お先に帰ります」 「お疲れ、寒いから気をつけてな」  竹脇が両手でコートを着込む仕種をしながらそういった。何に気をつけるべきかよく分からなかったが、とりあえず「はあい」と答えた。悪い人ではない。  それから車を走らせ、薄暗い寒空の安座富町を行く。今日は昼間から空がどんよりしていたが、雨の予報ではなかった。  フレンチレストラン『アイリス』は数年前にできたそうだが、賀川は塚村に教えてもらうまでぜんぜん気付かなかった。大きな通りから一本奥まった静かな住宅街にあって、辿りつくまで付近を少しぐるぐるした。  店の敷地は白い外壁に覆われて、まわりから中の様子は見えにくい。入り口に掲げられた看板も、まるで見つけてほしくないかのように控えめだ。玄関までの長いストロークでは植えられた樹々をさりげなくライトアップしているが、派手なイルミネーションはなし。建物には煙突が見え、窓の少し紗がかかったようなガラスからは暖色の薄灯りが漏れていた。 「ほう」  賀川はそう呟き、とりあえず良しとした。  塚村は誰に対しても優しいし、仕事も真面目にするので、男女問わず皆に人望はあったけど、オシャレなわけでも、情報に敏感なわけでもない。だから職場の女同士で男連中の話をするときに「イイオトコ」として名が挙がることは滅多になく、「ああいうのが職場に一人いると便利」という、ほとんど家電のような評価を受けていた。  要するに、モテるタイプじゃないのだ。でも、そこがいい。  この店の雰囲気は、塚村のチョイスとしては悪くなかった。といっても、彼もまだ行ったことがないというのだから、偶然だろうけど。 「お待ちしておりました、賀川さんですね」  そう言って男性店員が賀川を席に案内したのだが、すでにその席には人が座っていた。こちらに背を向け、男の人が座っている。  見覚えのある背中―― というか塚村だ。 「あれ、なんでここに」  賀川が声をかけると、彼はすぐに振り返って「全然驚いてないなっ!」と言って笑った。 「驚かすつもりだったんですか」 「もうちょっと何か反応あると思ってた」  思わず賀川も笑ってしまった。コートを店員に渡すと、塚村の正面に座る。 「ていうか、来られるようになったんなら言ってくださいよ。別々に来なくてもよかったのに」 「いや違うって。一人で行けと言っておいて、実は先回りするっていう、これは綿密な――」 「慣れないことはするもんじゃありませんな」  賀川はそう言い放ったが、計画だと知って内心はすごく嬉しかった。成否はともかく、こんないたずらを仕掛けてくれるなんて。 「でも、いい店ですね」  店内を見回して、賀川は言った。客はほかに数名いる。  ウッド調の大きなテーブルが店内にまばらに置かれていて、店全体にゆとりがあった。暖かいのは薪ストーブがあるためだ。あの煙突はフェイクではなかった。壁にはあのカードと同じ、アイリスの花をあしらったお皿が飾られている。 「堅苦しくないし、かといってカジュアルすぎない」 「評論家かよ」  それから塚村は「ヒレ、ウェルダンで良かったよな」と聞いてきたので「うん、それで大丈夫」と答えた。何度も食事したわけでもないのに、よく分かっている。  三月という時期に一番ホットな話題というと、やはり人事のことだ。四月に数名の配置換えが予定されていて、もう前任・後任の引継ぎも大詰めだった。 「もう次の課長と話した?」 「私は、ちらっと挨拶しただけ。引継ぎで忙しそうだったし」  今の医事課長が定年退職になり、別の病院から転勤してくる。上司が変わると仕事のやり方が大きく変わるかもしれないので、賀川はシンプルに「ヤだな」と思っていた。 「ねえ塚村さんは、次にどこの係やりたい?」 「そうだなぁ、とりあえず人事課以外ならどこでも。今は忙しすぎるし、その割に実りがない」 「愚痴っぽいなぁ、もうちょっと前向きな理由でお願いします」 「賀川がそれいうかな。仕事嫌いのくせに」  確かに、と笑った。仕事がキライってわけじゃないけど、仕事だけに埋没するのがイヤなのだ。とにかく旅行に行きたい、旅行が好き。それと海、スキー、温泉。賀川にはバブル世代ドンピシャの従姉妹(いとこ)がいて、その時代の話をしょっちゅう聞いていた。  遊び中心の世界、いいなぁと思う。 「まあ何だかんだいっても、賀川は仕事きっちりやるし、評判いいよ。竹脇係長も飲みの席でよく褒めてる」 「そうなの? それは嬉しい」  普段から上司らに評価されている自覚などないが、今まで特に大きな失敗をして迷惑をかけたこともないので、自己評価としては常に「まあまあ普通」だった。特に向上心があるわけでもないので、それで十分だ。  もちろん塚村の言葉は嬉しかったが、それよりも、彼が自分を喜ばせようとして言っている雰囲気を感じたので、そこが気になった。  この食事には、裏があるのか――!?  そんなわきゃないか、とすぐ思い直した。  順に、コース料理が進む。もともとフレンチが大好きってわけでもないので、基本的には綺麗な盛り付けを目で楽しむことにしていたが、サラダに乗った赤海老のカダイフというのは美味しかった。カダイフって初めて聞く言葉だ。まあいい。それよりノンアルのシャルドネが思ったより美味しくて、食事が進んだ。 「塚村さんも、評判いいよ。面倒見もいいし」  そういえば褒め返してあげてなかったなと気付き、もうその話題は終わっていたのに、賀川は唐突に言った。塚村はバゲットを頬張ったところだったので、返事はなく少し笑った。 「朝田ちゃんのことも、やっぱけっこう仕事でフォローしてるんですか?」  急に塚村がむせ込んだ。  朝田あかねは塚村と同じ人事課の人事係で、民間移譲と同時に採用となった後輩だ。県立時代を知らない最初の世代で、賀川と少ししか年も変わらないのに、何となく隔世の感がある。――と言ったら年配の連中に笑われたけど。  朝田は明るくハキハキしたタイプなので、賀川も仲が良い。 「ま、まあ普通に。いやそんなでもないか。同じ人事課だけど係が違うから、関わりは少ないかな」 「私とは課も違うのに、いろいろ教えてくれたけど」 「いや、賀川は、初めての後輩だったからだと思う。何となく、頼りなかったし。いやそんなことないか」  どうも、しどろもどろだ。別に何か罪を追及しているわけではないし、慌てる意味がよく分からない。 「どっちにしても、賀川よりはフォローしてないと思うよ、多分」  彼が続けたその言葉で、ああそうかと気付いた。 「何か言い訳めいた言葉だけど、別に朝田ちゃんに優しくしても私は嫉妬しないですよ」 「いや、もちろんそうは思ってないけど」 「むしろ、私にだけ優しかったらそれもイヤだし」  そう返すと、塚村は小さな声で「えっ、そうなの」といった。  さて、嫉妬しないとは言ったものの、もし本当にそうであったら嫉妬するだろうな、とは思っている。  実際に賀川は、朝田からも、他の同僚からも、塚村という人間への感謝や賛辞をよく聞いていた。そういうときは、何となく落ち着かない気持ちになる。おそらくこれは、塚村が他の誰かに優しくすることへの嫉妬よりも、他の誰かが塚村の魅力に気付くのがイヤだな、という気持ちだったと思う。  そこまで自己分析してみて、頭の中で「魅力」という言葉を自然に用いている自分に気付く。 「朝田ちゃんカワイイし、まあ下心があっても普通でしょ、男なら」 「そっかなぁ・・・そんなに可愛いか?」  塚村はグラスの水をぐいっと飲んだ。予想通りの反応で、賀川は笑った。朝田に彼氏がいることは知っていたし、その意味では何の心配もしていない。  メイン料理が来た。塚村のほうは、よく分からないけど白身魚だった。 「賀川は、そういう話はないのかよ」 「何が? 愛だの恋だのって話?」 「ま、まあそういうことだけど」 「ないない、別に恋愛したい気持ちもないし」  塚村が「ふうん」とだけ言った。彼にとって満足な答えだったかどうかは分からないけど、賀川はけっこう本心だ。大学時代の彼氏とは就職して間もなく別れたが、そのときは心底、「疲れたなぁ」と思ったものだ。それからは、特に恋愛はしていない。  メインディッシュを食べ終え、テーブルが一度キレイになった。 「けっこう食ったな」 「美味しかった」  それからデザートである。残念ながら、もうデザートになってしまった。せっかく楽しい時間だったのに、時間が過ぎるのって早い。運んできた店員が、「オレンジのクレープシュゼットです」と説明した。それから紅茶。ソーサーには小さな花が添えられている。 「これ、アイリスとは違うみたい」  小さな五弁の花である。アイリスのような紫じゃなくて、青とも違う、藍色というのだろうか。 「それはね、ワスレナグサだよ」 「……なんですぐ分かんの」  どう考えても不自然だ。「それはね」っておかしいだろ。賀川は思考を巡らせた。まさかとは思うが、この店と何か示し合わせてたのだろうか。 「賀川は嫉妬しないって言ったけど、俺のほうはダメだな」 「えっ?」 「さっき言ったみたいに、竹脇係長が賀川を褒めたりするだろ。そうするともう、イヤな気持ちになる。職場だって、俺は二階で、賀川は一階。今どんな顔してるだろうとか、誰かと話してるのかなとか、姿が見えないから考えてばかりなんだよ」  紅茶の湯気が、二人の間で揺らめいた。 「いつのまにか、俺の賀川なのに、って思うようになってた」 「……私のこと、独り占めしたいの?」  言ってから恥ずかしくなった。どんだけイイオンナ目線だ。慌てて「私はモノじゃないのに」と補足して、軌道修正した。 「嫉妬とか独占欲とか、一番ダメなやつだよな。わかってはいるんだけど」  塚村が、じっとこちらの目を見つめた。その通りだ、そんなものは醜い感情である。真実の愛(、、、、)とはほど遠い。  ――でも。 「賀川を、独り占めしたい」 「な……ちょっとちょっと、塚村さん」  びっくりして、茶化そうと思ったのに、うまく言葉が出ない。落ち着いてデザートを食べさせてほしかった。クレープが美味しそうなのに、まだ手をつけられていないのだ。  体感的には数分、見つめられていた気がした。好きだとも付き合ってほしいとも言われていないのに、賀川はこくりと頷き、塚村は「ほんと?」と言って顔を綻ばせた。  少し戸惑ったけど、賀川も嬉しかった。もしも自分にレッサーパンダほどの大きなシッポがあったなら、たぶん根元からちぎれるほどに振っただろうと思う。でもそんなシッポはないので、現段階では「抱きつきたいなぁ」という気持ちに留まった。  もう数日で年度が変わる。  賀川は、良い幕開けだなと思った。
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